創世記12:10-13:末
オリエントの中の旧約史3
1. 飢饉でエジプトに避難する
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
12:14 アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
12:17 しかし、【主】はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
12:19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。
アブラムは主のご命令にしたがって、カナンの地にまいりますが、そこに着くとまもなく旱魃となり飢饉が訪れました。古代カナンの人々は、この地に飢饉が起こるとエジプトヘ食料を求めて避難するということがしばしば行なわれていたそうです。アブラムとその一族もエジプトに避難したのです。後に、アブラムの孫ヤコブの時代の飢饉のときにも彼らはエジプトに避難し移住することになります。
なぜエジプトには他の地域が飢饉でも食料が豊かだったのでしょう。古代の歴史家ヘロドトスの有名なことばに「エジプトはナイルの賜物」とあります。ナイル川が地中海に注ぐデルタ地帯にエジプト文明が誕生したことを指しています。エチオピアのさらに奥地のアフリカの熱帯雨林に注いだ雨が、豊かな栄養分土壌を含む水となってエジプトへと流れてくるのが世界最長の川、ナイル川です。雨季になると、ナイル川の水位が徐々に上がってデルタ地帯全体が徐々にその水に覆われます。それでエジプトの土壌は、なにも肥料をほどこさなくても天然の肥料によって豊かな収穫を得ることができました。実に、二十世紀後半に巨大なアスワンダムとアスワンハイダムができるまではエジプトは豊かな穀倉地帯としての地位を保っていました。現在、エジプトではダムのせいで化学肥料を使わねばならなくなって、農地が荒廃していることが問題となっているそうです。
当時は豊かな穀倉地帯であったので、飢饉のときになると、地中海世界のあちこちからエジプトに避難してくる人々がたくさんいたのでした。「飢饉になったらエジプトへ」というのは、いわば当時の社会の知恵であり常識であったわけです。アブラムとその一族もそれにしたがったのでした。
問題は、聖書の本文には、どうもこの飢饉が襲ってきた時、アブラムは、祭壇の前にひざまずいて祈ったという形跡が見えないということです。「飢饉ではあるけれど、ここは神が約束された地なのだから、とどまるべきなのでしょうか?」と神の前に悩んだ形跡がみえません。カナンの地に到着したときには、ただちに主のために祭壇を築いたとあるのに、飢饉がやってきたとき彼は祭壇の前にひざまずいたとは書かれていないのです。彼は仮に習慣的に祈りはささげたとしても、真剣に特筆するほどには神の前に「主よ。私たちはエジプトに下るべきでしょうか、それともあなたが約束してくださったこの地にとどまるべきでしょうか」と祈り求めたということはなかったのです。
一族を引き連れエジプトへ下る道々、アブラムの心は、急に恐れに満ちてきました。「エジプトに行ったら、きっと妻のサライは美女だから自分は男たちのねたみを買うことになってしまうだろう。」と。そして、「そうだ、サライには妻ではなくて妹だということにしてもらえば、自分のいのちは助かるぞ」というわけで、アブラムは妻サライに自分の妹だと偽らせるのでした。あきれたものです。サライはどんなに失望したでしょう。
果たして、エジプトの関所に来ると、サライの美貌はエジプトの役人の目にとまりました。そして、エジプトの大奥にサライが招じ入れられ、アブラムはその兄というわけで、エジプト王からさまざまな厚遇を受けることになるわけです。
<考古学史料>
アブラムがエジプトに避難した避難した時代、エジプトは中王国時代(紀元前21C-18C)でした。紀元前19世紀~18世紀前半の「呪詛テキスト」と呼ばれるものがあります。これは古いグループは陶器の椀に書かれた碑文で、新しいグループ(18世紀)は小さな粘土像に書かれています。内容は、エジプトの支配を脅かす可能性のあるすべてのものの機先を制して呪いをかけるテキストで、呪いをかけられた潜在的な敵の長いリストが含んでいます。
このリストの名の言語学的分析から、当時カナンの地の60名ほどの支配者たちが西セム系であったことが明らかであり、その中には「アブラン」という名が含まれているのは興味深いことです。中王国時代のエジプトにアブラムの名は知られていたのです。(マラマット『ユダヤ民族史1』p66参照)
さて、アブラムにとっては、妻を身代わりにして得た金銀財宝などうれしいはずもありません。彼はもう腐ってしまって、どうすることも出来なくなっていたわけです。しかし、神様がこの時、歴史の中に介入されました。神様はサライの身を守るために、エジプト王の大奥を恐慌に陥れて、結局、サライはアブラムのもとにつき返されることになりました。
エジプトの王はアブラム一族をエジプトから出て行くように求めました。とはいえ、アブラム一族には特別に恐るべき神がついているということを体験しましたから、彼らを粗略に扱うことをせず、多くの財産を与えた上で丁重にお引取り願うということになったわけです。このたびエジプトに下ったことはアブラムの軽率さであり、それによって妻を裏切るという罪をも犯してしまいましたが、主はご自分が選んだアブラムとサライを格別のえこひいきとも見える取り扱いで、守ってくださったのでした。
カナンへの帰途、アブラムは自分たちの身に起きたことをふりかえって、自分がなぜこんな過ちを犯してしまったのか?と思い巡らしました。そして、思い至ったのは、自分が祭壇をつまり礼拝・祈りをおろそかにしたことが過ちの始まりであったという事実でした。約束の地に到着したときには、主の前に祭壇を築いて礼拝をまずささげてスタートしたのに、いつのまにか主への礼拝をなおざりにし祈りをなおざりにしていたとき、飢饉が起こって、そのときには慌てふためいて、主のみこころをたずねることもなく世間の人々がするのと同じようにエジプトにくだってしまったのでした。そして、妻を妹と偽ってわが身を守るなどという男の風上にも置けないような男に成り下がってしまったのでした。
そのことに気づいたアブラムが再出発をするとしたら、まずあそこに戻るしかありませんでした。それは、約束の地にはいって最初に礼拝をささげてスタートした、あの場所です。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。 13:4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。
<教訓>
箴言21章5節に「すべて慌てる者は欠損を招くだけだ」ということばがあります。日本風にいえば「あわてる乞食はもらいが少ない」ですね。卑近なことで考えても、どこかに車で行くのに遅刻しそうだというとき、そういうときこそ慎重に運転をします。事故をおこしてしまったら、遅刻どころではすみません。
また、この国の動きを見ていてもそうです。原発を再稼働すべきだという政府の人々は、本当に一年か半年ほど先の経済効果しか眼中になく、100年先はおろか10年先も見えていないようです。本来は国家の指導者の役割というものは、企業経営者とちがって、100年先まで考慮して今の決断をすることなのですが。
私たちはさらに深い次元、霊的な次元において、「すべて慌てる者は欠損をまねく」ということをアブラムの過ちにおいて学びました。彼は約束の地に到着した初心の時はよかったのですが、そのうち「祭壇」をおろそかにし、危機が襲ってきたとき、慌てて、背に腹は代えられないとエジプトに下って過ちを犯しました。
危機のときに即断することなく、まず主の前にひざまずくべきです。安易にこの世の知恵にしたがってはなりません。特にそれが神がくださった約束、たいせつな祝福をないがしろにすることにならないか、注意深く祈り考えるべきです。目の前のコップ一杯の水のために、いのちの泉を捨てることは愚かなことです。もし、自分がそういう過ちを犯していたと気づいたならば、今日、悔い改めてやりなおしましょう。アブラムのように。
2. ロトと別れる・・・・・カナンの地理
「13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。 13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。 13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。
13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。」
さて、エジプトから、カナンの地に戻ってきたアブラムは、ロトとその一族と草地問題で争いとなり、離れて住むことになります。乏しいときは仲良くすごすことができたのですが、エジプトに下ってそこで富を得てからロトとの関係がおかしくなったのでした。一旗上げたいという野心家のロトにしてみれば、おばさんのサライがエジプトの大奥に召し入れられてしまったのは、おじさんには気の毒だけれど、自分としてはなかなかいいことだったのでしょうね。王様の后の親戚として、これから世界の大国エジプトで経済的にも社会的にも豊かな生活が始まると思われたからです。でも、ことはロトにとってはうまくは運びませんでした。結局、サライがアブラムの妻であるという事実が露見してエジプトを追われることになります。とはいえ、ロトはエジプトで多くの財産を得て家畜もたくさんふえたわけです。
そうしたとき、家畜の草をめぐり、あるいは水場をめぐって、ロトの羊飼いたちとアブラムの羊飼いたちとの間に争いが頻々と生じるようになってしまいました。
「 一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、 ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」箴言17章1節
このとき、アブラムは甥のロトに選択権を与えます。おじさんに世話になってきたロトとしては本来、遠慮すべきところでしたが、実際には舌なめずりをしながら緑豊かなヨルダン川のほとりの低地を眺めて、この地を選びとってしまいます。そしてロトは低地のあの滅びの町ソドムの近くに住むことになります。
他方、一見はずれくじをつかまされたようなアブラムでしたが、主からの特別のことばがあって、カナンの全土はアブラムのものだと約束されるのです。「得た」と思ったロトは結局はすべてを失い、主の前に手をひらいたアブラムには、最終的に神がよきものを賜るのです。
<カナンの地理>
ここには、カナンの地の自然的地理的な条件が現れています。四国ほどの面積のカナンの地は、中央に南北に大地溝帯が走っていて、その地溝がヨルダンの低地となっています。
カナンの地はガリラヤ北方にレバノン杉の繁るヘルモン山がそびえています。大きな山がある麓には泉が湧くものです。八ヶ岳の麓のあちこちには泉が湧き出ているでしょう。小海では五箇というこんこんと湧き出る泉があります。山梨県北杜のほうにも豊かな泉がありますね。そのように、ヘルモン山に降った雨や雪はレバノン杉の森の木々の根元にいったんとどめられて、ゆっくりと地下に浸透して地下水となり、ガリラヤ湖として湧き出ているのです。ですから、主イエスが若い日を過ごされたガリラヤは、「緑したたるガリラヤ」と呼ばれます。またガリラヤ湖もペテロやヨハネやアンデレが携わった漁業が基幹産業であったように、豊かないのちに満ちた湖でした。(詩篇133:3を参照)
そして、このガリラヤ湖からあふれた水は、大地溝帯であるヨルダンの谷を南へ南へと流れ下って行くヨルダン川となっていて、その両岸は帯状に緑豊かになっています。長々と続くオアシスのようです。そして、ヨルダン川の終着点が死海です。ガリラヤ湖がいのちに満ちた湖であるのに、そこからあふれ出た水が最後にたまった湖はなぜ「死の海」になってしまったのでしょうか。それは、こちらは世界で最も低い海抜マイナス418mにある湖であるために、外側から水が入ってくるばかりで、外に流れ出ることがないからです。流れ込んでくる水には岩塩が溶けて含まれていて、乾燥地帯で水が蒸発していくので、何百年、何千年と蓄積するうちに、とてつもなく塩分濃度が高くなって魚が住めなくなってしまったわけです。アブラムがいた時代から4000年がたった今日では、さらにはるかに塩分濃度があがってしまっています。
<教訓>
このガリラヤ湖と死海のあり方と、アブラムとロトの生き方がちょうど重なっているように感じられます。あふれ出て他を潤す人生は豊かでいのちに満ちたものとなるけれども、自分ばかりが得をしようと人から求める、貪りの人生は死臭がするのです。
小海キリスト教会が二十年前にスタートしたころ、同盟基督教団から教会支援費というものを受けたり、国内開拓伝道会から伝道のための支援を3年間いただいたりしていました。感謝なことでした。ですが、そのころから礼拝で、しばしば「『受けるよりも与えるほうがは幸いです』とみことばにあるように、私たちも今は支援を受けていることは感謝ですが、もっと幸いな「与える幸い」を経験する群れとなりますように」とお祈りしていました。
今なお私たちは小さな群れではありますが、それでも他の教会のことを覚えて微力ながらも支援することができるようにしていただけたことは、大いなる神様の恵みです!そして、他の人を他の群れに与えることを実践しているならば、神様はもっと私たちに多くのものを託してくださるでしょう。託し甲斐があるからです。
「受けるよりも与えるほうが幸いである」ということを、私たちキリスト者の一人一人の人生においても、教会としても、さらに味わうものでありたいと思います。