苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖なる経験

マルコ9:1−8
2016年12月11日 苫小牧朝拝

9:1 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」
  9:2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
9:4 また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。
9:5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
9:6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。

人生には決定的な経験というものがあります。50年間の生活が365日かける50あったとしても、その中にたった1日の非日常的な経験が、その人の人生に後々にまで深い影響を及ぼし続けるということがあるものです。こういうことは、一般的な生活においても言えることですが、神様とともに生きる信仰生活においてもあることです。
ある日、主イエスは3人の弟子たちに言いました。「さあ、一緒に山に上ろうではないか。ついてきなさい。」そうして、彼らはこの山の上で聖なる経験をしたのです。
 「主よ。わたしたちがここにいるということはすばらしいことです!」使徒ペテロはあまりの感動と驚きとのために、そう叫びました。ペテロがここでした経験というのはどういうものなのでしょう。そして、この経験は弟子たちの生き方にどういう影響を及ぼしていくのでしょう。さらに、私たち自身にとってはどうなのでしょう。


1.山で

 イエス様は、ペテロを初めとする弟子団から信仰の告白を受けたのち、弟子たちの中でも特におもだった者3人だけを連れて高い山に連れて上られました。3人の弟子とはペテロ、ヤコブヨハネです。彼らはゲツセマネの時にも特別に連れられています。この高い山は、恐らくガリラヤ地方の北にそびえるヘルモン山であろうと思われます。標高2814メートルで、ちょうど八ヶ岳ほどの高さの山で、冬場は相当の雪があるような山です。主とその一行はその山の峰の一つに登られたのです。
 神様はしばしば人里はなれたこのような山の上において、聖なる経験をお与えになります。旧約聖書でも、信仰の父アブラハムはあのモリヤの山の上で「主の山には備えがある」という経験をいたしました。また、モーセはホレブの山において十戒をいただいたのです。エリヤもまた、ホレブ山において神との出会いの経験をするのです。新約の時代においても、ここ変貌の山で弟子たちは啓示を受けるのです。さらに、主イエスによる宣教の大命令もまた、山でなされたとあります。
 こうした人里離れた山において、神様はしばしば大切な経験を与えてくださるのです。山とはどういうところでしょうか。それは、日常の雑事から隔離された場所です。山の上から町を見下ろすとき、私たちはそこでの人間の営みが小さなものとして見えてきます。その町での生活のただ中にいるときには夢中になっていた快楽や商売や、あるいは争いごとが小さなこととして見えてきます。確かに日常生活の中で神との出会いを日々経験しながら生活をすることは大事です。日常生活の中に生かされない信仰など無意味であるからです。けれども、時には、この世から離れて特別な場所で、静まって神と出会う経験をすることも重要なことです。
 日頃、私たちは特に都市生活をしていると、人工物に取り囲まれて生活しています。建物も、テレビも、机も、学校の教育も、仕事の内容も、道路も、公園も、空の色までも、人間の手が加えられているのです。こういう人工的環境の中に居るときに、私たちはともすれば神を見失いがちです。この世のこと、人間のわざがすべてであるかのような錯覚に陥ってしまうのです。
 詩篇19篇には「19:1 天は神の栄光を語り告げ、  大空は御手のわざを告げ知らせる。
19:2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。」また、148篇には「148:3 主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。 148:4 主をほめたたえよ。天の天よ。  天の上にある水よ。 148:5 彼らに【主】の名をほめたたえさせよ。  主が命じて、彼らが造られた。 148:6 主は彼らを、世々限りなく立てられた。 主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。 148:7 地において【主】をほめたたえよ。  海の巨獣よ。すべての淵よ。 148:8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。  みことばを行うあらしよ。 148:9 山々よ。すべての丘よ。 実のなる木よ。すべての杉よ。 148:10 獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。 翼のある鳥よ。」とあります。時々、私たちは人工物から逃れて、空を見上げ、森の木々の中を歩き、海鳴りを聞いて、ヒグマの唸り声に震え上がり、神の御前に祈り、神との出会いという経験をする必要があるのです。人里はなれたところでなされるバイブル・キャンプや修養会や聖会などに、機会を積極的に作って参加するということは、信仰生活の中で大切なことです。
正直なところを申しますと、バイブル・キャンプの働きに、かつて、私はあまり関心がなかったのです。自分自身の回心や献身がキャンプという場でなかったからです。日々のディボーションこそ大切だと考えていました。信仰生活は日毎の御言葉と祈りの上に築き上げられるものであって、わずか3日間とか1週間の特別の日常生活から離れたところでなされる特殊な環境での特殊な経験がどれほど意味があるのだろう。それほど意味のあることとは思えなかったのです。けれども、実際に何度か高校生たちのキャンプの奉仕に携わり、御言葉に親しみ神様が彼らの著しいお取り扱いを見るとき、確かに「山での聖なる経験」というものが、いかに重要なものであるかということが段々と分かって参りました。 北海道でも毎年青年たちの日高のキャンプ・プログラムがあります。「さあ。山に上ろう。」と主イエスが声を掛けてくださるとき、そのチャンスを逃さないようにしたいのです。

 さて、こうして山に上って、弟子たちはイエス様に特別な意味で出会うことになりました。

9:2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。 9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。

エス様の姿が栄光の姿にと変わりました。丁度、復活の後のお姿のようです。御顔は太陽のように輝き、み衣は光のように白くなったとあります。「この世のさらし屋ではとてもできないほどの白さであった」(9:3)という素朴な表現はいかにもペテロの生の証言らしいですね。マルコ福音書はペテロの証言がおもな内容だと読むほどに感じます。
 この山を「変貌山」と言いますが、実は、これは変貌ではありません。むしろ、イエス様本来の姿をお見せになったのであります。御子は、本来、栄光にかがやく神のかたちであられるのです。

ヨハネ17:5「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
ピリピ2:6 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず」
ヘブル1:3「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」
主イエスは、弱く罪深い私たち人間を救うために、その栄光を隠し

てしもべの姿を取っておられたのです。ただ、このとき弟子たちとともに十字架への道を出発するに当たって、彼らにイエスは神の御子であるという確証を与える必要があったのです。「あなたこそ生ける神の御子キリストです」と告白しながらも、サタンにとらわれて肉的な考えに陥りがちな弟子たちを、正しい信仰にとどめる必要があったのでしょう。
 ここで、まさしく本来の神の御子としての栄光と権威とを弟子たちに啓示されたのです。それは、やがて主イエスが再臨の時、栄光のうちに現われるときの、あの栄光です。

さらに、そこにはエリヤとモーセが来てイエス様と何かを話していました。

9:4 「また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。」

彼らは何を話していたかということは、ルカ伝の並行記事を見ると出てきます。「イエスエルサレムで遂げようとしておられる最後についていっしょに話していたのである。」(9:31)すなわち、イエスエルサレムにおける十字架の死による人類救済の使命について語り合っていたのです。
 どうして、ここにあのモーセとエリヤが来ているのでしょう。そして、エルサレムでの最後について話しているのでしょうか。モーセ旧約聖書の律法の代表者であり、エリヤは預言者の代表者でありましょう。そうして、イエス・キリストにあって、旧約の律法も預言も完全に成就される、格別、あの十字架において完全に成就されるということを、表わしているのです。今日は詳しいことは申しませんが、一つだけ預言の成就の例を上げておきましょう。キリストについての預言は数多ありますが、その最も代表的なのはイザヤ53章。このようにして、キリストにあって旧約の預言は成就されたのです。

 ペテロというのは、なんとも面白い、おっちょこちょいの人です。

9:5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

あまり素晴らしい経験だから、家を造ればエリヤやモーセも逗留してくれて、この素晴らしい経験が長続きするとでも考えたのでしょうか。が、マルコの9:6にはそのわけが書いてあります。「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。」
言うべきことが分からないからというのがその答です。ともかく、圧倒的な経験であったことは確かです。怖くてなにか言わないではいられなかったのでしょう。

 ・・・と、光り輝く雲がモクモクと湧上ってきて彼らを包みました。

9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。 9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。

この雲は、神の栄光を表わす臨在の雲です。シェキーナの雲といわれるものです。ホレブ山にモーセが登って、神が臨在された時に、その山頂を雲が覆っていたとあります。また、幕屋が完成したとき、栄光の雲が下ってきて至聖所に満ちました。また、主イエスの再臨のときには、イエスは雲に包まれて来られるとあります。いずれも神の臨在を表わすものです。あの偉大なモーセが経験した、輝ける神の臨在を一介の漁師たちがこのようにして経験することができたのです。驚きと恐怖に包まれざるを得ないのは当然のことです。
 すると、その輝ける雲から神の声がしました。「これは、わたしの愛する子。彼の言うことを聞きなさい。」先に弟子たちは、「あなたこそ生ける神の御子、キリストです」と告白しましたが、そのことの確証を神御自身が与えてくださったのです。

2.経験の意味−−−聖化と栄光化への希望

(1)ペテロにとって
 この体験が3人の弟子にとって、どういう意味があったのでしょうか。彼らの人生をどのように変えたのでしょうか。ヤコブは手紙を残していませんが、(聖書のヤコブ書は別のヤコブです)ヨハネもペテロもこの出来事を背景とした記事をそれぞれの晩年の手紙のうちに残しています。
 まず、ペテロです。ペテロの手紙第二1章三節から十八節。
 このときペテロは65才位です。青年時代の経験がペテロにとって、決定的なものであり、どんなに継続的に影響を及ぼしていたかが良く分かるでしょう。ペテロがここで言わんとすることをまとめると、キリストを信じる者は神に似たものとされるということです。そして、逆に、神に似たものとされるという約束をしっかりと握っていない人は近視眼になってしまいます。目先の欲得にごまかされて罪と妥協したりしてしまうからです。ペテロは、その約束がいかに素晴らしいものであるかということを、あの体験に基づいて証言しているのです。
 ペテロは、栄光に輝くモーセとエリヤを眼の当りにしました。それは、神を信じ神のために生涯を捧げて生き抜いたふたりの神のしもべです。彼らは人間にすぎないものでありますが、神はその恵みによって、彼らをも輝ける栄光の内に入れておられました。ペテロはそれを見ました。キリストに従い、キリストのためにその人生を全うするならば、私もまたキリストの栄光を反映する者と変えていただける、そういう約束を握っていたのです。
 ペテロだけではありません。あなたも、後には主イエスの栄光に与ることになります

(2)ヨハネにとって
 ヨハネもまた第一の手紙3章2、3節にこの経験を背景としたことばを語っています。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子供です。後の状態はまだ明かにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜなら、その時、私たちはキリストのありのままのすがたを見るからです。キリストに対するこの望みを抱くものはみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」
 ペテロが「神のご性質にあずかる者となる」ということを、ヨハネはここではキリストに似た者になるという表現をしています。主イエスに再びお会いするという希望、ありのままのキリストにお会いするという希望を持っている者は、我が身を清くするのです。
ヨハネもペテロも、あの日の素晴らしい経験をその晩年、老使徒と呼ばれる時まで決して忘れることがありませんでした。いいえ、年を加えるほどに、主イエスとの再会の日が近付くほどにあの日の経験は彼らにとって鮮明なものとなって来たのです。変貌の山においてペテロはその経験があまりにも素晴らしいので、そこに幕屋を造ってでもして少しでも長く、その経験ができることを願いました。けれども、それはほんの少しの時間で終わってしまったのです。けれども、やがて入れられる御国においては、あの素晴らしい経験をほんの一瞬ではなく、1時間でもなく1日でもなく1年でもなく百年でもなく、千年でもなく、1万年でもなく、永遠に、そうです、永遠にこの素晴らしい経験があるのです。ペテロは「主よ。私たちがここにいることは素晴らしいことです!」と叫び続けるでしょう。
 また、あの時、ペテロはモーセとエリヤが栄光に輝くのを眺めていただけでしたが、自分が恵みによって御国に入れられる時には、自分自身もキリストの栄光を反映して輝く者とされるのです。私たちも、キリストに信頼しキリストに従うならば、後の日に栄光のからだをいただくことができます。主イエスが再び来られるならば、お目にかかる備えができているでしょうか。