苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

詩篇46篇

46:1神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
46:2このゆえに、たとい地は変り、
山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
46:3たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
そのさわぎによって山は震え動くとも、
われらは恐れない。〔セラ


46:4一つの川がある。
その流れは神の都を喜ばせ、
いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。
46:5神がその中におられるので、都はゆるがない。
神は朝はやく、これを助けられる。
46:6もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、
神がその声を出されると地は溶ける。
46:7万軍の主はわれらと共におられる、
ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ


46:8来て、主のみわざを見よ、
主は驚くべきことを地に行われた。
46:9主は地のはてまでも戦いをやめさせ、
弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
46:10「静まって、わたしこそ神であることを知れ。
わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、
全地にあがめられる」。
46:11万軍の主はわれらと共におられる、
ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

 46篇にはふたつの思い出がある。ひとつは、恩師朝岡茂牧師が、結核の床に伏していた青年時代に、この46篇において主と出会われたということ。その証を何度きいたことだろう。そして、そのたび、主は生きておられるという思いを確かにしたことだろう。
 詳しくは、こちら。
 http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20100727/p1


 もうひとつは、大学時代聖書研究会のなかで、顧問をしてくださった津村先生がなんどか、46篇10節を取り上げられたことである。口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と訳され、新改訳では「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と訳される。「主のみわざを見よ。主は驚くべきことをされた。」といいながら、「静まれ」「やめよ」とはどういうことか。それは、人はえてして「みわざ」に心奪われて、主を忘れてしまうことがありがちであるからだろう。主ご自身を知ること、このことが人の主な目的。