苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン5月12日(火)

士師記6:13
ギデオンの言葉:神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。(新共同訳)

ああ、主よ。もし【主】が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。(新改訳)
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 イスラエルが約束の地に定着しようとする時代、王国時代以前の士師の時代のこと。イスラエルは半農半牧という生活をしていたが、収穫の季節になると遊牧の民ミデヤン人がその収穫を奪い去るということが年中行事のようになっていた。遊牧民と農民とは歴史のなかで宿敵である。
 ギデオンは、働いては奪い取られ、働いては奪い取られるという、自分たちイスラエルの惨めなありさまを、主に対して叫んだ。そういう文脈のことば。かつて出エジプトのとき、あの偉大なみわざを見せてくださった主がともにおられるはずなのに、なぜ私たちはこんなありさまなのでしょうか、と。
 信仰者はときどき、こんなことを感じるのではないだろうか。「われらは常に勝利、勝利、われらは常に勝利!」とか景気付けに叫んでも、「そうでもないよなあ」なんて思っている。
 でも、聖書にはちゃんと、信仰者にも、いや信仰者、つまり、神のこどもとしていただいた者だからこそ、一見わざわいと思えることがふりかかることがあるのだということも教えている。「父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
喜びも悲しみも笑いも涙もみんなまるごとひっくるめて、我らは常に勝利なのだ。