苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

花婿の友だちの喜び・・・新約的ライフスタイル

9:14 するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。
9:16 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:14−17)

 救いの歴史はキリスト以前の旧約時代と、キリスト以後の新約時代に分けられる。旧約時代はキリストが来ますよという予告編の時代であり、新約時代は待ち望まれたキリストが来て罪をあがない、私たちとともに生きてくださるという時代である。本日登場するヨハネの弟子たちの師、バプテスマのヨハネは旧約最後の預言者であった。
 旧約の宗教は、ヨハネのメッセージ「悔い改めなさい。天の御国(キリスト)が近づいたから。」に要約されている。ヨハネの弟子たちは、悔改めて律法をまじめにすべく努力した。しかし、まじめに努力すればするほど、かえって自分の罪深さを示され、己の罪の嘆きのなかでキリストを待望するのだった。断食というのは、もともと律法のさだめではなく、自分の罪深さを嘆く悲しみの表現だったのである。
 そうしたいわば厳しい修業のなかにあったヨハネの弟子たちから見ると、イエスの弟子たちの姿はとても不思議に映った。イエスの弟子たちは、断食もしなければ、時には取税人たちとも食事をともにして、楽しくのびのびしているのである。そこで、彼らは質問した。「どうして、あなたの弟子たちは断食をしないのですか。」
 イエスは、花婿と友だちのたとえをもって答えられた。花婿になぞらえられるのはイエスご自身、友だちは弟子たちである。結婚式のおめでたい席で、悲しそうな顔をして、「結婚、ご愁傷様です。」といったら失礼であろう。今、神のみ子が、救い主として神の民のただなかにおいでになって、親しく彼らと交わっているという喜ばしさのきわみのときに、悲しみをあらわす断食をするのは、場違いであり、失礼でもある。・・・だが三年ほど後には、私は人類の罪を背負うために十字架にかかることになる。そのときには弟子たちは、悲しみのあまり食べ物がのどを通らないという経験をするだろう、と。 
 旧約時代の聖徒たちのライフスタイルにに対する新約のクリスチャンのライフスタイルの特徴は、
 第一に旧約時代には、いわばご馳走のサンプルや匂いだけかぐことを許されたが、新約時代にはこれを存分に味わうことができる。旧約時代にはぼんやりと啓示されていた神のめぐみとまことが、新約時代には明瞭に現われたのである。
 だから、第二に、旧約の聖徒たちは罪のゆるしの確信を得ることができなかったが、新約の聖徒は神の前に罪がゆるされたと確信し、大胆に柔軟に、神様の愛を信頼して神様に近づくことができる。
 そこで、新約の聖徒としては、キリストにある救いの喜びを、大胆に表現することが許されているので、新しい時代にふさわしい礼拝のスタイル、生活様式を柔軟に工夫することができる。生命力に満ちた新しいぶどう酒は、柔軟で弾力性に富む新しい皮袋にいれるのがよい。