苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

救いの新時代

マタイ3:1−12
2012年8月19日 小海主日礼拝

1 荒野で叫ぶ者の声

 主イエスが30歳になられたころ、ユダヤの荒野にヨハネという人物が現れました。彼はイエスの母マリヤの親戚エリサベツの子どもに当たる人物で、イエス様よりも半年くらい年上でした。
 救いの歴史は、旧約時代と新約時代とに大きく区分され、旧約は新約の預言の時代であり、新約は旧約の成就の時代です。そういう意味で、バプテスマのヨハネは、旧約時代最後の預言者でした。また、彼は旧約の多くの預言者たちが待望していたメシヤにじかにお目にかかることができた唯一の預言者でしたから、女から生まれた者のなかで最も偉大な人であるとも言われています。こんな意味で、ヨハネの姿と働きは、旧約の預言者たちの姿とメッセージが集約されています。

●荒野に叫ぶ者の声
 まず、その姿、いでたちを見てみましょう。ヨハネは荒野で叫ぶ者の声でした。エルサレムのデラックスで荘厳な神殿のなかで響いている声ではなく、荒野で叫ぶ者の声です。そのいでたちも食べ物も、神殿にいる高級祭司たちのようなきらびやかで立派なものではありませんでした。
3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
 なんとなく炎の預言者エリヤのことを彷彿とさせるものがあるでしょう。旧約時代、祭司階級はスポンサーである王のごきげんを取るようになって、王権に妥協してしまって、神殿礼拝に偶像を持ち込むようになって、神様のことばを真実に伝えなくなってしまいました。そこで神様は、預言者たちを起こされて、彼らを通してご自身のメッセージを伝えたのです。預言者たちは、家柄とか社会的な地位とか関係なしに、神様から直接に選ばれて、ひたすらみことばを叫んだのです。まさに荒野に叫ぶ者の声でした。
 「声」と言われているのは、預言者は神から預かっていることばを語る、その声に意味があるのであって、その人物がアロンの家系なのかとか、権力があるかとかということとは無関係であるということでしょう。ヨハネは自分が消えて、ただキリストが人々に知られることをのみ望みました。だから、聴くべきは、彼の声、神のことばなのです。

ヨハネの役割はどんなものでしょうか。
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、
  「荒野で叫ぶ者の声がする。
  『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」
と言われたその人である。
 ヨハネ預言者としての役割は、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにすること」でした。これは当時の王が、地方を行幸をするとき、事前に伝令が派遣されて、道普請をせよと告げることばです。江戸時代でも大名行列があるときには、事前に伝令が宿場町に派遣されて道の整備がされ、沿道の人々による粗相がないようにと準備がされました。こんにちでも天皇が野辺山に見える前には、花を植えたりするとか、不審者がいないか警察がくるそうですね。
 メシヤ、約束の救い主である王が来られる前に、ヨハネはその霊的な準備をするという任務を与えられていたわけです。それは、イエス・キリストをその心と生活にむかえるための、霊的な道備えでした。それをヨハネは、神様から託された二つのメッセージによってしたのです。


(1)悔い改めなさい
 洗礼者ヨハネのメッセージの第一は「悔い改めなさい」ということでした。「悔い改め」ということばは、どうもイメージとして道徳的な罪を悔いて、その罪から離れるというイメージが強い翻訳なのですが、実際、そういう意味を悔い改めと翻訳されることばは含んでいるのですが、それ以上に大事な基本的な意味は、「神に立ち返る」ということです。
 悔い改めと約されることばはメタノイアということばで、「心を変える」ということで、神様に背を向けていた心を、神様の方に向けなおすということです。ですからメタノイアは「回心」と訳したほうがよいという人もいます。神様に背を向けて、自分中心な生き方をしていた人が、神様に向き直って、神様を中心とした生き方に方向転換すること、これが悔い改めの第一の意味です。もともと、人間は神様に造られた神様の作品ですから、神様を礼拝し感謝することを生活の中心として生きるのは人間として当然のことであり、正常なことです。逆に、神様に背を向けて自分中心に生きるのは、神様の作品である人間としては異常な生きかたなのです。
 そうして、神様を中心とした生き方に立ち返るときに、神様は聖なるお方であり、正しいお方ですから、さまざまな罪を捨てて生活を立て直すということが伴ってきます。悔い改めの実を結ぶということです。まず、神様に立ち返り、立ち返ったならばきよいいのちの源である神様につながれて、罪を捨ててきよい生活上の実を結んでゆくわけです。
 というわけで、悔い改め、回心とは、第一に自己中心の生き方を捨てて神様中心の生活に立ち返ることであり、第二に、神様に結ばれて、もろもろの罪を捨てて正しい生活をすることを意味しています。これは旧約の預言者たちが共通して述べたメッセージでもありました。イザヤは次のように告げました。
「55:6 【主】を求めよ。お会いできる間に。
  近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、
  不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。
  【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
  私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
 ヨハネの悔い改め、回心のメッセージに対して多くの人が応じてきました。
「3:5 さて、エルサレムユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、 3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」
 預言者のメッセージが人々の心に届いたのですね。

(2)偽善、傲慢を悔い改めなさい 
 しかし、ぞろぞろとやってくる人々の中にパリサイ人、サドカイ人が大勢いました。すると、ヨハネはたいへん厳しいことを告げました。
3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
 実に厳しいことばですね。「まむしのすえたち」というのは、あのエデンの園でアダムとエバを欺いた、悪魔の化身のことを意味しているのでしょう。パリサイ人、サドカイ人たちの本性を預言者ヨハネは神様によって教えられていたのでしょう。
パリサイ人、サドカイ人というのは、当時のユダヤ教のふたつの有力な学派でした。パリサイ派というのは国粋主義的で律法の形式的遵守を旨としていました。使徒パウロもかつてはパリサイ派でした。他方、サドカイ派ローマ帝国に追随する路線の学派で、彼らは祭司階級の多くを占めていて、神殿礼拝をつかさどっていました。こんなわけで、パリサイ派サドカイ派ともに当時のイスラエルの宗教的指導者でありましたが、考え方は相当へだたっていて、犬猿の仲でした。それにも拘わらず、ヨハネは両方ともに共通している問題点を指摘しました。
それは、傲慢と偽善ということでした。
傲慢というのは、「われわれの父はアブラハムだ」とあるように、自分たちユダヤ人はアブラハムの子孫であるのだから、異邦人とはちがうのだ。アブラハムの血筋にある以上は、神の民なのだという選民意識が問題でした。罪を犯していても、神の民なのだから大丈夫という意識でした。
そういう考え方が生んだのは、パリサイ派サドカイ派ともに宗教的偽善に陥っていたということです。パリサイ派は、民衆にはやたらと律法遵守の重荷を背負わせながら、自分自身は文言上律法を守ったことにするという言い逃れの技術に長けていたようです。サドカイ派は、神殿礼拝をきらびやかにまた荘厳に行なってたくさんの人々を集めて神殿経営に成功していたようですが、神殿経営を金儲けの商売にしていたことをのちにイエス様から厳しく叱られています。
偶像礼拝、親不孝、泥棒、人殺しももちろんいけないことです。でもこれらは罪としてわかりやすいのです。しかし、宗教的な傲慢と偽善ということは、神様がもっとも嫌われることでした。それを悔い改めなさいと、ヨハネは指摘したのです。

3 ヨハネのメッセージ(その2)・・・・来るべきメシヤ

 ヨハネのメッセージの第二は、「天の御国は近づいた」ということでした。私たちは「天国に行く」という言い方をしますが、聖書では「天国は来る」ものだといいます。「天の御国」の御国とはバシレイアつまり王国、王による支配という意味です。だから、「天の王国が近づいた」というのは、<王であるキリストが来られて、あなたがたを支配してくださる日が近づいた>と言う意味です。
人は、本来、神様によって神のご栄光を表わすために生きることを目的としたものです。ところが、アダム以来、人は自己中心で自分の栄光をあらわすこと、自分の望みを達成することを目的に生きています。だから息子の学校の進路説明会などに行っても、「自己実現こそ人生の目的だ」などと横弾幕がされていました。「自己実現」ということばは、ある種の心理学から出た、深い意味のあることばではあるのですが、一般の用いられ方は、そうでもないようです。しかし、神の王国の民は、自己目的に生きるのではなく、神の栄光をあらわすためにこそ生きるのです。自己実現でなく、みこころの実現のために自分の人生を主にささげるのです。 「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:7,8)

「 3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
  ここにはヨハネが自分の旧約的働きと、来るべきキリストのもたらされる救いの違いを述べています。もちろん神様は同じ神さまです。また、もたらされる救いは、新約旧約ともに恵みによる救いです。しかし、旧約時代と新約時代とで、恵みの豊かさが違います。旧約時代は、いわばレストランの前のショウウィンドウに並んでいるロウでできたステーキの見本を眺めて、つばを飲み込んできっとおいしいだろうと期待していることです。新約の恵みとは、お店のなかにはいってそのステーキを味わっていることです。私たち新約の時代に生きている者たちは、旧約時代のアブラハムモーセが受けた恵みにさらにまさる恵みを受けています。
 ヨハネは悔い改めのために、水のバプテスマを授けました。水で洗うのは、罪がきよめられたことの表象でした。これに対して、イエス様は聖霊と火とのバプテスマを授けると言われています。新約の時代の水のバプテスマには聖霊のそそぎが伴います。かつては、王とか祭司とか預言者という特別な職務に就くものにのみ与えられた聖霊が、イエス様が十字架にかかってよみがえって父のもとに帰って後には、すべての信徒に注がれることになりました。旧約時代の聖霊の与えられ方が、小雨、五月雨で、ぬれる人とぬれない人がいたとしたら、新約時代の聖霊の注ぎは土砂降りでぬれないものはないのです。
 聖霊が注がれるとは要するにどういうことか。それは、神が私とともにいてくださるということです。「あなたがたのからだは聖霊の宮である」とあるでしょう。かつて、エルサレム神殿の一番奥の至聖所にのみ特別に臨在をあらわされた、まことの神が、新約の時代にはすべての聖徒のからだを神殿として臨在なさるのです。なんという畏れ多いことでしょう。
 おとといの金曜日、辻浦定俊牧師の葬儀のため、川越のキングスガーデンに出かけました。私たちの教会でも三度ほど礼拝のメッセージをいただいたことがあります。司式は息子の信生牧師でした。信生先生は、お父様のことを「純粋な信仰、少年のような喜びに満ちた笑顔」と表現なさいました。先々週の土曜日、信生先生は定俊先生を見舞われました。土曜日ですから信生先生の牧師の頭の中には説教のためのみことばがあったそうです。それは、主イエスがマルタに向かって諭されたことば、「ほんとうに大切なものはわずかです。いや、一つだけです」ということばでした。唯一大切なものとはなんだろう?と心にひっかかっていたのです。父上の定俊先生に会うと、胃がんでやせ細ったおからだでしたが、あの満面の笑みをうかべておっしゃいました。「大丈夫だよ。主がともにいてくださるからね。なんの心配も要らない。」と。そのとき、信生先生は悟ったのです。『ああ、そうか。主がともにいてくださることを喜ぶ心、それこそただ一つの大切なことなんだ。』そして、これが親子として最後の対面となり、お父様が信生牧師に教えてくれた最後のもっともたいせつなこととなりました。
 そうです。皆さん。主がともにいてくださるということ、これこそ最も大切なことであり、主イエスが私たちに惜しげなく聖霊を注いでくださって、実現してくださったことなのです。
 
結び 
アブラハムが、モーセが、ヨシュアが、イザヤが、エレミヤがはるかに待ち望んで、預言をし、そして見ることのできなかったキリストにある救いが、今は、誰でも求めれば得られる時代となったのです。罪きよめられることを求めて、懸命に律法を守り、また毎年毎年いけにえの儀式をし、それでも、聖なる神のまえに罪赦されたという確信や喜びのなかった旧約時代のまじめな聖徒たちがいました。主は遠いお方、恐るべきお方だったのです。
 しかし、神様の御子が贖いを成し遂げて、聖霊を土砂降りのように注がれて以来、救いの新時代がやって来たのです。天国の門は、あの日から世界中の人々によってドンドンとたたかれ世界中の人々に開放される時代となったのです。あなたも今求めるなら、神の前にすべての罪赦され、主がどんなときでも、ともにいてくださるという喜びと平安に満ちた人生をいただくことができるのです。



Mattew3:1-12
The New Age of Salvation—John the Baptist

John the Baptist appeared in the New Testament but he was the last prophet of the old covenant. His mission was to prepare for the coming of Messiah, the Christ. He had two messages.

The first message was “Repent!” To repent (metanoia in Greek) means a change in mind. So “conversion” is better word for “metanoia”. The first thing you have to do is not moral improvement but going back to God. If you have been against God or not interested in Him, you should turn round toward God. Next God is holy and justice you need to separate from sins.

John the Baptist asked the Pharisees and Saddusees, the religious leaders of Israel for repentance. Their problem was arrogance and hypocrisy that made them blind about their sins.

The second message was “The kingdom of heaven is near”. We usually say, “we will go to heaven” but the Bible says, “ the kingdom of heaven comes”. The king Messiah has come. That means we have to leave egoistic life and begin God-centered life. We must leave the throne and offer it to Jesus Christ.

The people under the old covenant lived with the promise of Messiah but they did not get it yet. They were not permitted to have confidence that they were saved but we the people of God in the new covenant are permitted to have confidence. God made us his children and loves us. Why? Jesus Christ was crucified for our sins and resurrected after three days and He sent us the Holy Spirit who gives us the confidence of salvation. In the old age the laws were written on the stones but in this age the laws are written on our hearts, so we are able to recognize our sins. The Holy Spirit teaches us Jesus is the Lord and makes us the Children of God. That is the baptism by the Holy Spirit.