苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

エリヤ 「まず私のために・・・」

列王記上17章 


 主がエリヤに与えたことばのとおり、イスラエルには2,3年露も雨も降らず国中は飢饉に苦しんだ。だがケリテ川のほとりに身を隠したエリヤのためには、烏たちがパンと肉を運んで来てくれた。何度も教会の子どもたちに話したことである。そういえば、もう20年ほどまえ、中国で家の教会がいまよりはるかに激しく弾圧されていた時代、ママ・クワングという女性伝道者が投獄されて、食事もまともに与えられずにいたときに、牢獄の彼女のところにねずみが食べ物を持ってきたという証言を読んだことがあった。神のことばに仕えるしもべを、主はかならず養ってくださる。
 それにしても、持ってくるのが烏やねずみでなかったら、もっと食べやすかったかな、などと思う。あえて烏やねずみをもちいたまうところにも、なにか意味があるのだろう。

しかし答えられた「“パンがなくとも人は生きられる。(もしなければ、)神はそのお口から出る言葉のひとつびとつで(パンを造って、)人を生かしてくださる”と(聖書に)書いてある。」(マタイ4:4 塚本虎二訳)


 私が読むたびにエリヤの信仰がすごいなあと思うのは、むしろ、これに続くツァレファテのやもめとの出会いの記事である。主は、エリヤを倉庫に食糧がうなっている金持ちのところではなく、また、ほどほどに食糧のある家にでもなく、よりによって、ひとりのやもめのところで養うと言われた。エリヤは出かけて行き、やもめと出会い、彼女に「一口にパンを持って来てください」という。すると、やもめは、一握りの粉とほんの少しの油で最後のパンを作って、息子とふたり死のうとしているのだという。このときエリヤはなんと応じたか?

「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。 17:14『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。(列王上17:13,14)

 読むたび、う〜んエリヤさん、ちょっとあつかましいんとちがいますか?と思ってしまう。私ならば、「私は神様が養ってくれますから、お母さんと子どもでパンを食べなさい。そして、少しでも残ったら私にもください。」と言ってしまいそうである。あまりにも気の毒で、また、「いい人だな」と思われたいという下心で。 だが、エリヤは彼女に「まず私にのためにパンを」と求めた。それは、ゆるぎない神の約束に基づく信仰のチャレンジだった。エリヤは神の人として、神のことばを語った。

6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 6:34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ6:33口語)

 実際、彼女が神を第一にしたとき、甕の粉は尽きず、壷の油も尽きなかった。
 振り返ってみれば、主が、このやもめに出会わせる前に、エリヤを烏をもって養われたのは、彼に神の養いに対する確信をお与えになるためだったのだろう。だからこそ彼は大胆にやもめに対して、肉的配慮を超えて「まず私のために・・・」と信仰のチャレンジをできたのだろう。

     ナスの糠漬