苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

信仰の先達に学ぶ

へブル11:1−16



 本日は召天者記念礼拝です。目的は、人間が工夫した宗教におけるような追善供養ではありません。追善供養とは、故人が地上でなすべきでありながらなさなかったために、霊がこの世で迷っているとか、地獄に落ちてしまっているから、その不足分の善行を地上に残された者たちが代わりにしてやるというのです。
 聖書はなんと教えるでしょう。聖なる神の臨在される天の御国に入るためには、たしかに莫大な罪の償いとしての善行が必要です。しかし、人間のうち誰一人として、自分の罪の償いを自分でなしえる者はおりません。それどころか私たちは日々、心とことばと行いで罪を重ねています。御子イエス・キリストはそんな私たちをあわれみ、この世に人となってこられて、私たちのすべての罪の償いを、あの完全な愛のご生涯と、十字架における御業によって成し遂げてくださったのです。ですから、イエス様を信じる者は、一人残らず天の御国に迎え入れていただけるのです。これが信ずべき約束です。

「1:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 私たちの教会として記念する召天者のお名前を読み上げて、紹介しておきます。
(略)
 今年の召天者記念礼拝では、旧約の聖徒たちの信仰についてのみことばを味わいつつ、先に天に召された兄弟姉妹を忍び、兄弟姉妹を天に召してくださった主を礼拝しましょう。アベル、エノク、ノア、アブラハムという4人の信仰を学びたいと思います。

1. アベル・・・自力でなく、キリストにある贖罪の信仰

最初に登場するのはアベルという人物です。彼は、カインとともに、人類の最初の先祖夫婦アダムとエバから生まれた子供でした。つまりカインとアベルは兄弟でした。アベルについて聖書はなんと言っているでしょう。

11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

 カインは畑を耕す人となり、アベルは羊を飼う人になりました。やがて神の前に血を流された羊のささげものをすべき日がやってきました。神にどんなささげものをすべきかについては、父アダムから教えられていたと思われます。(ここでは釈義的議論をするつもりはありませんが、私は創世記3章21節から推して、父は彼らに、神にささげるのは羊のいけにえであると教えていたと推測しています。)キリストが来られる以前の時代のいけにえは、キリストが十字架で犠牲となれたあの出来事をあらかじめ象徴するものでしたから、基本的に「血を流す」ささげものである必要がありました。
 カインはアベルに頼んで自分の最高の作物と一頭の最高の羊を譲ってもらい、神へのささげものとすればよかったのですが、カインは神の教えに背きあえて自分の畑の作物を持ってきました。それはいわば「神よ。俺が作った野菜が気に入らないというのか」という態度でした。他方、アベルは教えられたとおり最良の羊をささげものとしました。「私は神の前に罪あるものですから、血をもってなす償いのゆえに赦していただきたいのです。」と。結果、アベルの捧げものは神に受け入れられ、カインのささげものは神に拒絶されてしまいました。それで、カインは憎しみをアベルに対して抱き、殺害してしまいます。
 しかし、「彼アベルは死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」とみことばは語ります。私たちがアベルに学ぶべき信仰とは、なんでしょうか。それは、自分の善行を神様の前に誇ることでなく、小羊キリストにある罪の贖いを感謝して受け入れる信仰です。


2. エノクの信仰・・・神とともに歩む信仰


 第二に登場するのはエノクです。

11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 聖書のなかには、この世界で死を経験することなく天に挙げられた人が二人だけいます。一人はエリヤであり、もうひとりがこのエノクです。へブル書は「神に移されて見えなくなりました。」と表現しています。
 エノクはある日、散歩をしていました。いつものように歩きながらエノクは、主と親しくお話をしながらテクテクと野の道を歩いていました。気が付くと、西の山の端に日が隠れかかっています。主はおっしゃいました。「もう日も暮れようとしている。もっと話したいことがあるから、うちに来ないか?」エノクは答えて「ええ。いいですよ。」それで、彼はそのまま神様のもとに行ってしまいました。エノクはそういう風情の人なのです。
 エノクが突然いなくなったとき、人々は彼の墓誌にはこう刻まれました。「エノクは主とともに歩んだ」。
 私たちが突然、この世から去ったならば、周囲の人たちはあなたの墓標に「○○は何とともに歩んだ」と刻むでしょうか?「○○はカネとともに歩んだ」「○○はレタスとともに歩んだ」ではなく、主イエス・キリストにあって罪赦され、神の子どもとされた私たちも、「○○は主イエスとともに歩んだ。」と書いていただけるような歩みを志してまいりたいものです。<神とともに歩む信仰>これこそが今なおエノクが私たちに語っている信仰です。

3. ノアの信仰・・・神の御言葉にとどまる信仰
 第三番目はノアの信仰です。ノアの時代、世の人々は「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」と聖書は言っています。人々は、まことの神様を忘れて、ただ何を食べるか何を飲むか、誰と結婚するか、何をして遊ぶか、そういう世俗的関心のみになり、なにが神の前に正しいことなのか、何が罪であって避けるべきことなのか、人生の真の目的とはなんなのかといったことには無関心になっていました。
そんなとき、神様は、ノアに対してまもなく大洪水がやってきて、山々をも覆い尽くし地上の罪は一掃されてしまうことになると告げました。ですが、ノアには三階建ての巨大な箱舟の設計図が示されました。ノアはいまだかつて山々を覆うほどのまだそんな雨を見たこともありませんでしたが、神様がおっしゃる以上ほんとうであると信じました。そして、ご命令どおりに自分と家族と神がお選びになった生き物たちを残すために、巨大な箱舟を作りました。
 周囲の人々はノアをあざけったにちがいありません。『宗教もいいがほどほどにしとけばよかったのに。ノアの奴、神様を信じすぎて、頭狂っちゃったんじゃないの。』と。しかし、ノアは神様の約束を信じて揺るがず、神の教えてくださったとおりに息子たちとともに箱舟を造り上げました。そして、事実、全地を襲う大洪水が襲ったのでした。
まだ見ぬことがらを、神のみことばによって見る信仰をノアはもっていました。

11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

 この世の評価、人間たちの言葉でなく、あくまでも神のことばにとどまる信仰。私たちはこれをノアから学びたいと思います。現代も、人間のことばがあふれています。テレビやラジオや新聞やインターネットやらを通じて、人間のことばが私たちの耳に飛び込んできて、私たちを神様から引き離し「カネがすべてだ」「快楽がすべてだ」といった世俗的な価値観に洗脳してしまいます。私たちは、聖書を開き、神の声に聴く信仰を大事にしましょう。


4.アブラハムの信仰・・・天の都を待ち望む信仰


 そして、信仰の父アブラハムです。彼の信仰についてへブル書はなんと言っているでしょうか?
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。 11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。 11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
 アブラハムはもともとメソポタミアの地に生まれ住んでいました。75歳のときに神の召しをうけて、みことばのままに移住してカナンの地が約束の地であるとお告げを受けました。しかし、彼がカナンの地で得た土地は、ただ一族のための墓所、マクペラの畑地のみで、その生涯を天幕生活で終わりました。なぜでしょうか。その意味がここであきらかにされています。アブラハムは、<私たち信仰者は、地上では旅人であり寄留者である>ことを明らかに示したのです。私たち神の民が帰るべき故郷、相続すべき地は天の都なのだということを、アブラハムは証しているのです。
  私たちは、それぞれにこの地上にあって家庭があり、仕事があり、学び舎があり、それぞれの任務があります。それぞれの持ち場立場にあって、神の栄光をあらわすことは大切なことです。しかし、究極的には、やはり「私たちの国籍は天にあります!」私たちは地上では旅人であり寄留者です。このことを決して忘れてはいけません。この世に居ついてはいけません。この世は一時の通過点です。目的地は天の都です。
 先に召された主にある兄弟姉妹たちは、それぞれに地上の務めを果たして、天の都に帰って行きました。私たちは、天の都を目指す旅人としての信仰をたしかなものとしようではありませんか。

結び

  11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。