苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

それをここにもって来なさい

マタイ14:13−21、ヨハネ6:8,9


1 ヨハネの死と主イエスの心と群衆

14:13 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。

 主イエスは、バプテスマのヨハネがヘロデとヘロデヤの手にかかって処刑されてしまったという知らせを、ヨハネの弟子たちから知らされました。ヨハネの弟子たちは落胆していました。あるいは、イエスに仇をとって欲しいというふうな思いを持つ者たちもいたかもしれません。この知らせに、主イエスの十二人の弟子たちもまた動揺したでしょうし、周囲をとりかこむ群衆にもすぐに知られることになり、群衆たちにも動揺が走り、興奮していったようです。
 そんななか、主イエスは舟に乗って、そこを去られたのです。主イエスご自身にとってもヨハネは親戚、おそらく従兄弟でもありましたから、深い悲しみを感じていらしたと思います。メシヤの到来を告げ、その備えをする預言者としての使命をまっとうして殉教したヨハネを悼んで静かになりたいとお考えになったのだろうと思います。それが、「自分だけでidianさびしい所に行かれた」という表現になっています。ただし、「自分だけで」という訳では、主イエスがひとりで舟に乗ったかのような誤解をしてしまいそうですが、そうではなく、「群衆から離れて」という意味で「自分だけで」です。「バプテスマのヨハネがヘロデに殺されてしまった」「イエス様、立ち上がってください」というふうに興奮している群衆から離れて行かれたという意味であろうと思われます。
 こうして主イエスと弟子たちを乗せた舟は、ガリラヤ湖を行くのですが、それほど大きな湖でもありませんから、主を慕う群衆たちは沖合いを行く舟を右手に見ながら、岸辺を歩いて行って先回りしてしまいます。舟がベツサイダ近くの小さな港についたときには、おびただしい群衆が主イエスを迎えたのです。

 群衆を離れるために舟に乗ったのに、群衆がついてきてしまったのですが、舟から上がった主イエスは不機嫌ではありませんでした。「14:14 イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。」と書かれています。主のこころをちっとも理解せずについて来てしまった群衆ではありましたが、彼らに邪険になさるのでもなく、深くあわれみました。例のスプラングニゾマイということばが用いられています。はらわた痛む思いを持たれたというのです。そうして、連れてこられた病人たちの病気も癒されたのです。
 こういうところを見ると、私は「ああ、イエス様だなあ」としみじみと思います。目の前にいる群衆は、ただ、病気が治りたいとかそのほかのことで困っている、腹が減っている、あるいはヨハネが死んで自分たちはこの先どうしようかと不安の中にいたヨハネの弟子たちもいたでしょう。さまざまな人がいたわけです。でも、誰も主イエスの思いを理解していたわけではなくて、のちには主イエスを十字架につけてしまうような群衆なのです。主イエスはこのときひとりになって、父の前にでて静かに祈りたかったのでしょうが、目の前にいる群衆を見るとあわれまないではいられなかったのです。主イエスはそういうお方でした。そういう神の御子だからこそ、わけのわからないわたしたちのために、人となってこの世界に来て下さったのです。



2 主は弟子たちを試す



 さて、続々と主イエスのところに病気を治してください、悪霊を追い出してやってください、相談に乗ってくださいと人々がやって来るなかで、主イエスと弟子たちは彼らに癒しを与えたり話を聞いてやったりしているうちに、もう日が西の方に傾いてきました。弟子たちもくたびれて、おなかがグーグー言い始めました。そこで、弟子たちは言いました。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
 弟子たちがいうのは至極もっともなことでした。男だけで五千人という人々を目の前にしているのですから。舟はベツサイダのほど近くに到着したようですから、そこに行けばいくらかパンも手に入るでしょう。ところが、イエス様はおっしゃいます。16節「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
 主イエスは十二弟子たちを試していらっしゃるのです。弟子たちの信仰を試していらっしゃるのです。これまで、弟子たちとともに歩んでこられて、弟子たちも相当いろいろな経験をしてきたわけですし、偉大な奇跡も見てきました。病気をたちどころに治すとか、悪霊をやすやすと追い出すとか、中風で起き上がれず話すこともできなかった男を立ち上がらせるとかいろんなことがありましたし、嵐の小舟では、波と風にむかって「黙れ、静まれ」とおっしゃると直ちに波も風もおさまったという奇跡も見てきました。その上で、主イエスは、今、おびただしい群衆を前にして、弟子たちに「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」とおっしゃるのです。
主イエス様ときどき、このように私たちの信仰を試されます。信仰をもって応答することを期待なさりながら、試練をお与えになります。旧約聖書を見れば、アブラハムの生涯を見ても、モーセの生涯を見ても、ダビデの生涯を見ても、主はその人の神様との経験に応じて信仰の試練をお与えになります。あなたもまた、そういう信仰の試練にあったという経験があると思います。主は、その試練を通して、あなたを次の信仰の境地へと飛躍させてくださいます。「われらを試みにあわせず」とありますから、私たちはあえて試練を求めて祈るべきではありませんが、主が試練をお与えになったときには、それを信仰と忍耐をもって受け止めることが肝心です。それは、主があなたに何か大切なことを学ばせようとしてお与えになるものだからです。


3 それをここに持ってきなさい


 主イエスの弟子たちは、この信仰のチャレンジに対して、どう反応したでしょう?

14:17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」

 この弟子はアンデレであったとヨハネ福音書の平行記事には記されています。この五千人給食という出来事は、弟子たちにとってよほど印象的な出来事だったので、四つの福音書すべてに詳しく記録されています。この5つのパンと2匹の魚はひとりの少年がイエス様に差し出したものでした。弟子のアンデレはそれをイエス様に紹介したのです。大群衆を前にしていて、「何やっているんだ。たった5つのパンが何の役に立つだろう。」と考えた弟子もいたでしょうが。
 「きっとイエス様は、『ぼうや。ぼうやの気持ちはわかったよ。お母さんが持たせてくれたお弁当かな。それなら、坊やが食べればいいんだよ。』とでもおっしゃるんだろうな。」と言うふうに考えた弟子もいたでしょう。そういうのが世間の常識というか、やさしい主イエスのイメージにかなっているのかもしれません。でも、本物の主イエスは、そういう常識にかなったただのやさしい愛の先生や宗教家ではありませんでした。主イエスは神の御子なのです。

14:18イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」

 少年の差し出した食べ物について、「それをここに持ってきなさい」と主イエスはおっしゃるのです。そういえば、旧約の預言者エリヤもシドンのツァレファテでこんなことがありました。1列王記17章9−16節

17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
17:12 彼女は答えた。「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。 17:14 イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。 17:16 エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

 もしエリヤがただの「よい人」「愛の人」であったら、「あなたと息子で食べなさい」と言ったでしょう。そして、やもめと少年は最後のパンを食べて、餓死したでしょう。それが人間の限界です。でもエリヤは神のお約束にしたがって、「まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。」と言いました。そうして、やもめと子どもは生き延びました。
主イエスのところに持っていくとき、主はそれを用いて偉大なことをしてくださいます。少年が自分ひとりで五つのパンと二匹の魚を食べただけならば、それだけのことでした。ですが、少年がイエス様にさしあげよう!と決心して行動したとき、まったく別次元の結果が待っていました。
少年にとって5つのパンと二匹の魚は決してわずかなささげものではありません。おなかがグーグー鳴いているとき、手元にある食べ物を、しかも、すべて差し出すことは容易なことではありません。大人たちは「これだけか」と蔑んでも、五つのパンと二匹の魚は彼のすべてでした。彼のイエス様に対する愛と信仰と献身の現れです。主は彼の献身を祝福されたのです。おなかがすくのをこらえて、愛と献身をもってイエス様のもとにささげたときに、主はたくさんの人々の空腹を満たしてくださり、少年もまたおなか一杯になったのでした。いえ、おなかが一杯になっただけでなく、その心が主に対する感謝と賛美であふれたのです。

14:19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。 14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。 14:21 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。


結び
 主イエスは、ときどき私たちの信仰をそれぞれの段階において、試されるのです。試練をお与えになるのです。そのテストに信仰をもって合格し、信仰生活の飛躍を経験したいものです。
さて、ここでは、ささげ物に関するテストでした。たとえわずかなものでも、主イエス様にささげるならば、イエス様はそれを用いて大いなることをしてくださいますという教訓ではありません。他人の目にはわずかであっても空腹をおしてささげた少年にとっては、それは決して「わずかな」ではなく、彼のすべてでした。それが彼のイエス様に対する愛と献身の表明であることは、主イエスがご存知でした。
アナニヤ、サッピラのように人の目には莫大なささげものをしても、そこに愛と献身がなければ、祝福されません。ささげものにかんする事の真相をご存知なのは、捧げる人と主イエスだけです。主イエスは、献身のささげものを祝福なさいます。私たちも、それぞれにイエス様の御眼の前に献身のあかしとしてのささげものをしたいものです。
「それをここに持ってきなさい。」とおっしゃる主イエスのことばにしたがいましょう。主はそれを祝福して、偉大なことをしてくださり、あなたをも祝福してくださいます。あなたにも主イエスはおっしゃいます。「それを、ここに持ってきなさい。」