「聖書神学」という科目がもはや多くの神学校では提供されなくなっていることに、私は残念な思いを持っています。新約緒論、旧約緒論、各書概観、各書研究、釈義というのはあるのですが、聖書全体を歴史的な流れとして把握するという、ゲルハルダス・ヴォスが提唱した「聖書神学」という科目が提供されないのです。神学生時代に読んだのですが、ヴォスは、「聖書を全体的に把握する方法として、論理的順序で把握するのが組織神学なら、歴史的順序で把握するのが「聖書神学」だ」と書いていました。
超自然的啓示などということはありえないから、聖書の各書は、他の古文書と同じような歴史的産物にすぎず、「聖書」はそれらをかき集めたものだと考える人々(実質的に理神論者)が「聖書神学」を断念したのは筋が通っています。しかし、聖書が全体として三位一体の神が啓示された書物なのだと信仰告白を掲げている神学校・神学大学が「聖書神学」を断念してしまっていることは奇妙なことではないでしょうか。学問の世界は専門分化していて「聖書神学」は学界における評価の対象外になってしまっているからでしょうか。
こうした傾向は、どの学問分野にも相当昔から起こっています。問題の根っこは、17世紀デカルトの要素還元主義でしょう。<部分の集合イコール全体である>という考え方です。だから、<対象を認識するには、対象を細かく分ければ分けるほど正しく知ることができる>ということになります。今日病院に行くと、昔のように内科・外科といった区分ではなく、「私は内科といっても肝臓の専門家なので循環器のことはよくわかりません」というのがあたりまえのようになっていますが、その根っこにはデカルトの要素還元主義があります。人間の全体が見えない医者。こういう状況への反省から、ホーリスティック医学ということがもうずいぶん前から提唱されてはいますが。
神学の世界は大体時代遅れなのですが、リベラルな立場でも少し前から資料分析的研究がたまねぎの皮むきのようにむなしくて、しかも、仮説の上に仮説を何段にも積み上げたあやうい作業だと気づいたからか、正典論的に聖書を読むということで、聖書を全体として教会の書として読もうという人々が出てきています。
私自身は、パウロのように「 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:27)という任務を説教者として果たしたいと神学生時代から願ってきましたので、連続講解を説教の基本スタイルとしていますが、ヴォスやロバートソンの聖書神学を意識しながら、これを説いてきました。特別なことではありません。「木を見て森を見ず」に陥らないようにと心がけて来たのです。森を見てこそ木は見えるのです。
<追記>「仮説に仮説を積み上げる」
かりに的中率70パーセントの仮説でも、ふたつ重ねると49パーセント、三つ積み重ねると30数パーセントになってしまいます。