列王記下1章
1つめ。
1:4おとめは非常に美しく、王の付添いとなって王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。
この一節はダビデはもう年老いたということを意味するのだろうが、同時に、ダビデが多くの妻をもったことによって自らの人生と王国とに悲惨と混乱を招いたことについて、彼が後悔していたということを意味しているように思われる。
旧約聖書に登場する多くの男たちは複数の妻を娶っているが、それがことごとく夫婦不和・子どもの不和・親子の不和、そしてダビデのような場合、国民の苦しみを招いている。一夫多妻制でみんな仲良く暮らしましたという事例は見られないことを通して、神はその問題性を教えようとしていらっしゃるのではなかろうか。
2つめ。
1:49その時アドニヤと共にいた客はみな驚き、立っておのおの自分の道に去って行った。 1:50そしてアドニヤはソロモンを恐れ、立って行って祭壇の角をつかんだ。
ダビデの時代のイスラエルでは長子相続は制度化されていなかったし、ダビデは多くの妻を持っていたから、その跡目争いはややこしかった。まずアブシャロムの父王に対する反逆があり、アブシャロムが鎮圧されてのち、弟アドニヤが名乗りを上げた。だが、結局はダビデが決めていたソロモンが王座につくことになった。アドニヤを押し立てようとした取り巻きは、その報せを聞いて震え上がり、アドニヤ自身悲惨なことになってしまう。
古代日本でも、官僚制度が整って誰が王になっても政治は遅滞なく粛々と進められていくという時代になるまでは、実力者が天皇になるということだったから、そこには血で血を洗う争いが起こることは必然だった。壬申の乱はその一例にすぎない。
権力というものは、ある人々にとってはたいへん魅力なのだろう。ビジョンが次々に湧き上がってくるようなタイプの人は、もし自分が権力ある立場につけば、思い通りにそのビジョンを実現できるだろうにと思うのだろう。だが、聖書によれば、力ある立場につく人にとってもうひとつの大事な資質は謙遜・柔和ということである。
「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」1ペテロ5:5,6
「柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。」マタイ5:5
おととい新宿ー幡ヶ谷の地下鉄に乗ったら、ボンタン飴のつり革だった。母が好んだ菓子だった。数十年来、デザインが変わらない。