苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神学生になる前に

 神学校を出て教会に派遣されると、「先生」と呼ばれることになる。しかも、教会の牧師というのは理科や数学や国語の先生とはちがって、「人生の先生」であることが期待される。大学を終えて神学校3年間ストレートで来たら、わずか25歳。教会のメンバーの大半は自分よりも年長の方たちである。
 「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし。」ということばはあるが、敬虔な教会の兄弟姉妹たちが、25歳の青年を「先生」と呼ぶのは、そんな悪意をこめてではない・・・たぶん。若くても神がお立てになった器なのだという信仰ゆえに、先生と呼んでくださる。そして、教会が25歳の若者に期待することはパソコンが上手なことではなく、人生経験は乏しくとも、聖書と神学については専門的知識をもち、祈りと伝道においては秀でた情熱と実践力を持っているということ以外にはあるまい。
 では神学校で聖書知識を得たから、知識面では大丈夫かというと、そう簡単は話ではない。聖書という書物は、人生の経験が浅いと浅くしか読めないという面のある書物だからである。ではどうすればよいのか。若者は人生経験の乏しさを、読書をもって補わなければならない。本ばっかり読んでは頭でっかちになると心配されるほど本を読むべきである。
 ところが、今時の神学生たちに決定的に欠けていると感じるのが読書である。読書といっても神学書ではない。神学生が神学書を読むのはあたりまえだ。筆者が言いたいのは、古典的な文学・思想書の類のことである。こういう本を神学校にはいってからじっくりと読みふける暇はおそらく少ない。神学校は聖書語学にやたら時間をとられてしまうから。また、お手本になるような文体で書かれた邦語の神学書は少なく、特に神学書には日本語としてはひどい悪文の翻訳が多い。だから、将来、牧師を志している青年は、高校生、大学生のころに思想書・小説などを、文庫なら、大雑把すぎる言い方だが6段の本棚2箱くらいは読んでおくべきだ思う。誰かがまとめてくれた手軽な「新書」の類ではなく、古典を読んで脳漿を搾る。そういうことが遅効性の肥やしになる。

 そうそう、「古典」というのは、中学生の語彙では、徒然草源氏物語を意味するらしいが、ここでいうのは勿論そういう意味ではない。西洋文学の先生は「古典」ということばを古代ギリシャ・ローマの典籍のことだというが、筆者がここで古典と言っているは、洋の東西を問わず時を超えた価値を持つとされた類の本のことである。いわば岩波文庫に収録されている類の本である。岩波文庫は買取制の本屋泣かせなので、このごろでは田舎の本屋にはないので、あまり見たことがないという若者が多いのだが、今ならamazonなどネットで入手できる。「岩波文庫の百冊」なんていうのから始めてはどうか。
 「岩波的教養主義の崩壊」などということが言われるが、そういう教養主義の世代の人々にも聖書の解き明かしをし、会話することも当然求められる牧師を志す以上は、だれかが言った標語を口実に読まないで済ませるというわけには行くまい。

教養主義の没落→http://d.hatena.ne.jp/ced/20060611/1150002589