苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

憲法が憲法であるための九十六条

1.憲法と法律は役割がちがう

 五月三日は憲法記念日だった。九十六条と九条について考えてみたい。憲法と法律は役割がちがう。主権者である国民が「この枠内で法律を決めて仕事をしなさい」と政府に制限をかける道具が憲法である。他方、憲法の枠内で決められた法律は、政府が国民にたとえば「税金を納めよ」などと命令するための道具である。この仕組みを立憲主義という。
 なぜ、国民は憲法で政府を制限する必要があるのだろうか。昔、フランスでは王が「朕(ちん)は国家なり」と言って、好き勝手に戦争をしてさんざん国民を苦しめた。権力者は警察と刑務所をもっているので、独裁化すれば、権力者にとって都合の悪い人々を刑務所にぶちこんだり、好き勝手に戦争を始めて国民を戦争に狩り出すことができるから、これを制限する必要がある。日本でも先の戦争のときには、帝国憲法には軍部の暴走を制限する仕組みがなかったために、悲惨なことになった。憲法は権力者に制限をかけ、国民の権利を守る大事な道具なのである。


2.特別多数の意味

 ところで、政党政治のしくみにおいては政権を持つのは、国会の議席過半数を獲得した党派である。だから、もし過半数憲法改正の発議をすることができることになれば、政権与党は好き勝手に憲法改正は発議ができることになってしまう。これでは、憲法は「政府を制限する」という役割を果たすことができない。つまり、九十六条を改変して、憲法改正発議を過半数の国会議員でOKであるとすることは、立憲主義を捨てて独裁国家に転落することを意味している。
 だから、日本国憲法にかぎらず、世界中の近代国家の憲法では、改正のための発議には国会議員の三分の二あるいは、五分の三が必要であると定められている。政権与党だけでなく、相当数の野党の議員も納得して賛成してこそ、憲法改正の発議ができるという仕組みにしておくことで、権力の暴走を防止しているのある。憲法改正の発議に衆参両院でそれぞれ三分の二の国会議員の賛成が求められるという現在の九十六条は、世界標準にかなっている。
 このように、九十六条は単なる手続き条項ではなくて、憲法憲法であるための必須条件なのである。

参照 http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130314/p2


3.一体なにがしたいのか

 自民党が九十六条改変によって改憲のハードルを下げて、ねらっていることは戦争放棄条項である憲法九条の改変である。自民党改憲草案には、九条改変・集団的自衛権行使・国民の基本的権利の制限がうたわれている。国民の権利を制限しなければ、戦争などできないからである。では九条改変のねらいはなにか? 
 それは尖閣諸島竹島問題・北朝鮮の核ミサイルなど周辺事態に対処・防衛するためではない。政府は、以前から九条は自衛を許していると解釈しているからこそ、自衛隊が存在し活動しているわけで、九条を変えなくても周辺事態には対処することはできる。
 では、九条改変の狙いは何か? それは、わが国の自衛とは関係なく、遠くで起こっている戦争に、わが国が参戦できるようにすることである。もっとあからさまにいえば、米国大統領がウソをついて引き起こしたようなイラク戦争のような戦争にでも、日本の青年たちの生命を差し出すことができるようにすることである。
 私たち国民はこうした事実を、正確に理解したうえで、参議院選挙で正しい選択をする必要があると思う。

(通信小海5月号に載せる予定)