苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

量るように、量られる

マタイ7章1−6節 民数記12章1−10節
              

フクジュソウ福寿草

1 主があなたをさばく物差し

「7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。 7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」

 私たちはクリスチャンになった時から、イエス様を知り、万物の創造主であり裁き主である方を、父として持つようになりました。これは実にすばらしい恵みであり、特権です。そうして聖書のことばを知って、真の神様のきよさ、正義といったことを知るようになったわけです。私たちは新しい年度「成熟を目指して進もう」という標語を掲げたわけですが、霊的に自分が成長していった時に、もっとも危険なことのひとつは、霊的な高慢という罠に陥ることであると思います。霊的な高慢に陥ると、私たちは人を裁くようになってしまうのです。
「さばいてはいけません」ということばですが、「さばくkrino」というのは、これは正しい、あれは間違っているというふうに、自分が裁判官になって、他人を被告席に立たせて有罪判決を下すということです。もちろん、ここでいう「さばき」というのは裁判官の話ではなく、私たちが日常生活で人のことを「ああだこうだ」と非難することを意味しています。ですから、ある翻訳では、大胆にも「あらさがしをしてはいけません」と訳されています。

 主イエスは続いておっしゃいました、「さばかれないためです」と。どういうことでしょうか?「誰に」さばかれないためなのでしょうか。それは神様にさばかれないためです。私たちは日々、時々刻々、意識していても無意識であっても、神様の前で生活をしています。神様は、私たちの心のうちの思いと、ことばと、行動をことごとくご覧になっています。そうして、私たちのすべてを御存知の上で、さばきを行われます。神様は、私たちに対するさばきを、行われます。それは今生きているこの世界においての取り扱いによるものか、あるいは、最後の審判のときになさるかは神様がお決めになることですが、とにかく必ず神様は公平にさばきをなさるのです。
 注目すべきことは、そのとき神様があなたを裁く基準は、あなたが自分で決めた基準であるということです。つまり、あなたが他の人のことを裁いた基準で、神様はあなたをおさばきになるというのです。これほど公平なことはありません。私たちはその日、納得することでしょう。だから、私たちは兄弟姉妹に対してあわれみふかくあることが賢明なのです。寛容であることが賢明なのです。「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」


2 兄弟の目のちりと、あなたの目の梁


 しかし、私たちはたいへん不公平な人間です。自分にかんしての裁きのはかりは甘く、他人(ひと)に対する裁きの基準は厳しいのです。イエス様はたとえをもって教えられました。
「7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」
 イエス様は大工さんでしたから、大工さんらしい譬えをなさいますね。NIV,新共同訳は、ここで「塵」と訳されることばを、「おが屑、speck of sawdust」と訳しています。「君たちは、兄弟の目を見て、「おまえの目にはおが屑が入っているぞ」と騒ぐけれども、そう言っている君の目には、ほれ梁が(丸太棒)がはいっているじゃないか。」とイエス様はおっしゃるのです。
 私たちには、しばしば、自分の大きなアラは見えなくて、他の人の小さなあらばかりが見えてしまうのですね。私たちの判断力はみな、アダムの堕落以来、残念ながら、たいへん不公正で、人をはかる物差しと、自分を測る物差しとが違っているのです。三浦綾子さんのエッセーにあった例です。ある女性が自分の隣家の奥さんが浮気をしたということについて、こういったそうです。「メス猫みたいでいやらしい」。その後、何年かして、この女性自身が浮気をしたそうです。そのときにうっとりした目をして、こういったそうです。「恋は美しいものよ。」人がする浮気はメス猫の仕業で、自分の浮気は美しい恋なのです。
 自分の目の中の丸太棒には気づかないで、人の目の中のおが屑ばかりが気になって仕方がないというのが、君たちにはありがちなことだよ、と主イエスは私たちにおっしゃるのです。
  

3 自分の目から梁を除いたなら


「7:5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」

 あなたは目にちりが入ってしまったとき、どんな人に「目の塵を取ってください」と頼むでしょうか? 興奮して怒り狂っている人に「目のちりを取ってください」とは頼まないでしょう。目を傷つけられるのが落ちですから。冷静で慎重でやさしい人に、目の塵を取ってくださいと頼むでしょう。私たちが人に意見して、その人を正そうと思うならば、冷静さと慎重さとやさしさが必要です。そうでなければ、単にその人を傷つけるだけで終わってしまいます。
また、それ以前に、私たちが、もし兄弟の目から塵を取り除いてあげたいなあと思ったら、まず、自分の目に大きな丸太棒が突き刺さっていないかどうか吟味しなければなりません。目に丸太が突き刺さったままでは、到底、兄弟の目の中の塵を見つけることなどできませんからね。 私たちは誰かに意見をして、その人を正してあげなければならないと思ったときに、まず私たちが実行しなければならないのは、落ち着いて、自分自身の目の中の梁をとりのぞくことが先です。言い換えれば、「自分が彼を彼女をはかる測りで測り返されても、大丈夫だろうか?」とよく反省して、悔い改めた上で、慎重に適切に意見をすることです。

 しかし、自分の目の中の梁を取り除いたら、すっきりと見えるようになった結果、もしかしたら、「あれ?兄弟の目のなかに塵などなかったじゃないか。」と気づくかもしれません。そして、「ああ、私の目がおかしかったんだ。感情的に非難しないでよかった。」と冷や汗をかくことがあるかもしれません。ですから、私たちは兄弟に対して、基本的にあわれみふかくあること、寛容であることが賢明です。ただ単に人を非難の目で見ている自分自身が単に間違っているかもしれないからです。
 最後に例として、旧約聖書における出来事を取り上げておきましょう。民数記の12章です。

「12:1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。 12:2 彼らは言った。「【主】はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」【主】はこれを聞かれた。
12:3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。 12:4 そこで、【主】は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕の所へ出よ」と言われたので、彼ら三人は出て行った。
12:5 【主】は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、 12:6 仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、【主】であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。 12:7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。12:8 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、【主】の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」
  12:9 【主】の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。12:10 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた。アロンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。
                       民数記12:1−10」


 ミリヤムは、弟モーセ1人がイスラエルの指導者として幅を利かせていることをやっかんでいました。彼女の目には傲慢であるように見えたのです。そして、ミリヤムはアロンを引き込んで、いっしょに主のしもべモーセに反抗したのでした。口実は、モーセのクシュ人の妻のことだった。律法にはカナンの地の人との結婚については禁じられていましたが、クシュ人から妻を娶ってはならないとは定められていませんでしたから、モーセが律法違反をしていたというわけではありません。けれども、まあ、イスラエル人のなかから妻を娶っているほうが、世間的にはよかったのは事実でした。こういう弟の弱点をついたのでした。
 しかし、主はミリヤムに対して怒りを発せられました。「なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか。」主が御自分を代表する権威として立てた指導者を軽々しく非難することは恐ろしい結果を招きました。彼女は主に撃たれてしまいます。
 本当に傲慢だったのは、ミリヤムだったのです。彼女の両目には梁が入っていたために、モーセが傲慢に見えただけのことでした。モーセが傲慢だという判断はまったく見当はずれなことでした。彼は、自分はそんな器では到底ありませんと、神様に重ねて辞退したのですが、神様がどうしてもおまえだとおっしゃるので、やむなくこの困難きわまりない任務に携わっていたにすぎません。私たちは人が傲慢に見えるときには、自分こそ主の前に傲慢なのではないかとよほど深く自己吟味する必要があるということです。

「さばいてはいけません。さばかれないためです。」
「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」