苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

あわれみ深い者

マタイ5:7
2012年10月14日 小海主日礼拝

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」マタイ5:7


1 「義に飢え渇く」の次に

八つの祝福の第五番目です。四つまでをあらためて振り返ってみましょう。
 最初が「心の貧しい者、悲しむ者」でした。自分の罪を認め、悲しんでいる者に、神様の恵みによる赦しが与えられ、神の子どもとされたのです。「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られ」ました。キリスト者の生活は、私たちのもっている何かよいわざにではなく、神の恵みの事実に根ざしています。このあと、神の子ども、主イエスの弟子としてどのように神の祝福のもとに生きて行くかが語られていきます。
 まず、「柔和な者」。柔和ということについて、私たちは、アブラハムモーセ、そして、誰よりも主イエスが模範に学びました。私たちは世にあって不当な扱いを受けることがありますし、誠実に生きていても誤解されて非難を受けることもあります。そのときに自分の権利や名誉にしがみついて主張をするのではなく、正しく裁き給う父にさばきを委ねることです。そのとき、人は自制心をもって柔和に生きられます。
 「義に飢え渇く者」は、先週のみことばです。ここでいう義とは、まず弟子として主イエスに対する忠義、次に、派生的に主イエスとともにこの世に正義を実践することです。この世界では権力や富を持つ人々によって、小さな者が虐げられています。主の弟子は、小さな者たちを縛り付けている悪しきくびきを打ち砕き、困窮している人々とパンを分かち合うのです。
 そして、本日、学ぼうとしているのが、「あわれみ深い者は幸いです」という5番目の祝福のことばです。「義に飢え渇く」ということばの次に、「あわれみ深い」ということばを語り出されたことに、特別にイエス様の意図を感じます。「義に飢え渇く」という激しい表現をもって、イエス様はキリストの弟子というものは、この世界に神の正義が実現することを熱心に求め戦うのだということを教えられました。クリスチャンになって「わ〜い。天国行きの切符をもらった!」と喜ぶのはよいことです。天でも、ひとりの人が悔い改めるならば、天使たちもお祝いがされているのですから、喜ぶのは当然です。けれども、イエス様は私たちをご自分のものとして聖別なさったあと、私たちをこの世の遣わされました。それは暗闇に光をもたらし、悲しみに満ちているこの世に、神様の正義と慰めをもたらすためです。正義と関係するのは「さばき」であり、慰めと関係するのは「施し・慈善」です。

2 あわれみ深い者・・・さばきの文脈で

  「あわれみ」ということばは、聖書を見てゆくと、二種類の文脈で用いられています。一つは「さばき」と関係することばとして用いられています。「あわれみ」とは、人をさばく、つまり、判断することにおける寛容さという意味です。他人(ひと)を判断するモノサシがゆるやかであることを「あわれみがある」というわけです。
ヤコブ2:13に次のようにあります。

「 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」

 またイエス様は、主人から莫大な借金を棒引きにされながら、友人のわずかな借金を赦さない悪いしもべにかんするたとえの中で、主人にこう言わせています。

マタイ18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』

 心得て置くべきことは、神様がわたしたちをあわれむことと、私たちが他の人をあわれむこととは比例関係にあるということです。言い換えれば、神様が、私たちをおさばきになるにあたって用いるモノサシは、私たちが他の人をさばくモノサシなのです。私たちは、今朝も、そのように「私を量ってください」とお願いしたばかりです。先ほど、『主の祈り』で、

「われらに罪を犯す者を我らが赦すごとく、
 われらの罪をも赦したまえ」

と、祈ったでしょう。このフレーズの中の「ごとくὡς」ということばが、残念ながら新改訳聖書では省略されていますが、これは比例を表す大事なことばです。人を赦すことと、神から赦されることは比例関係にあるのです。人を赦さないことと、神から赦されないことも比例関係にあるのです。主の祈りをささげるとき、わたしたちは神様に向かって「私に罪を犯した人を私が量ったこの物差しで、私のことも量っていいですよ」と申し上げているのです。
 残念ながら、アダム以来、私たちは利己的で不公正な者です。自分に対してはあわれみ深くて、他人に対しては情け知らずな者です。しばしば申し上げるたとえですが・・うちに大事な花瓶があったとして、子どもが遊んでいて棚からそれを落として割ったとしましょう。きっとカンカンになって叱るでしょう。けれども、自分が掃除でもしていてぶつかってガチャンと壊したならば、「なんでこんなところに花瓶があるのかしら」とでもつぶやいて自分を赦してしまうのです。自分を計る物差しは甘く、他人を計る物差しは辛いのです。
 けれども、神様は公平なお方なので、私たちを公平にお取り扱いになります。あなたが他人(ひと)を量る物差しで、神様はあなたをもお量りになります。ですから、神様に寛容に扱っていただくことを望むならば、私たちは隣人に対して、出来るかぎりあわれみ深くあることがたいせつです。ですから、私たちは、まず自分の目から梁を取り除いてから、他の人の目の塵を取り除くことです。
社会正義の実現を目指して戦う人々が、えてして陥りがちな過ちがあります。それは、自分自身もまた神様の前では罪人の一人にすぎないことを忘れて、あたかも正義のヒーローであるかのように思い上がって、敵対者を悪としてこれを軽々しく裁くということです。歴史を振り返れば、正義感に燃えて行われた数々の革命運動には、ほとんど必然的に、血なまぐさい粛清がともなって来ました。ヒロイズムに酔っ払うことは危険なことです。
 それゆえ主イエスは「義に飢え渇く者の幸い」を語られたすぐあとに、「あわれみ深い者は幸いです」と配置されたのでしょう。ですから、格別、この世に正義がなることを渇望して実践するときに、私たちは「あわれみ」を忘れないようにしなければなりません。皆さんの中に革命家はいないと思いますが、正義感の強い人ほど、まず自分自身が罪人であってどれほど赦されたのかということを常に意識し続けていることが大切です。

3 あわれみ深い者・・・・ほどこしの文脈で

「あわれみ」にかかわるもう一つの文脈は、「ほどこし・慈善」に関することです。こちらは、「義に飢え渇く」ことと積極的な意味で関係しています。というのは、この世界に公正が実現するために実践すべきことは、一つには悪しきくびきを打ち砕くことと、もう一つは貧しい人々とともにパンを分かち合うことだからです。前回紹介した、山室軍平の廃娼運動では、公娼制度を打ち砕くとともに、解放された女性たちにとりあえずの生活の場を提供し職業訓練をしました。
エス様は次のようにおっしゃっています。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカ6:38

 ここでは「あわれみ」と訳すよりも、「気前よさ」と訳したほうがよいかもしれません。だとすると、山上の祝福の第五番目は次のようにも訳せます。「人に気前よく量る者は幸いです。その人たちは気前よく量ってもらえるから。」
私たちが人に対してどれほど気前よく量るかを神様はよく見ていらっしゃるのです。そして、その量りで、神様もあなたに量ってくださいます。人に対してけちけち量る人には、神様もけちけち量られます。神様は、公平なお方です。私たちは、自分は他人に対してはケチケチ計っておきながら、神様に向かって、「私には気前よくはかってください」と言いたくなるのですが、神様はたいへん公正なお方なのでそういうことはなさらないのです。私たちは、そういうわけで、施しにおいても自分で自分用のモノサシを神様の前に提出しながら生活をしているわけです。
こうした神様のお取り扱いについては、旧約聖書箴言のなかでも何度も教えられています。聖書を開いて読んでみましょう。

箴言19:17 「寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。
 主がその善行に報いてくださる。」
箴言28:27 「貧しい者に施す者は不足することがない。
 しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。」

でも、哲学者カントみたいな人は言うかもしれませんね。「神からの報いを期待して、貧しい人々に施しをするなんてさもしい考えである。なんの報いも期待しないで施しをしてこそ、それは立派な行いである。」と。たしかに理屈です。立派な理屈です。でも、私たちは現実にそんなに立派な人間ではないことを神様はよくご存知でいらっしゃって、私たちを善い行いをするように励ましてくださるのです。
また、クリスチャンの人生はしかつめらしい道徳的人格の陶冶ではなくて、生ける神様の恵みに対する生き生きとした応答としてのダイナミックな人生なのです。父なる神は、子である私たちと交流をもつことを望んでいてくださって、善い行いをすれば、「ほら、ごほうびだよ」といってほめてくださるのです。

むすび・・・主イエスのあわれみ
 きょうは結びとして、イエス様のご生涯のなかでそのあわれみに満ちたお姿を思い出させるみことばを二つ朗読しておきます。お聞きください。

 マタイ15:32 「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。』」

ルカ23:33、34 「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。 そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」