苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

一羽のすずめ

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽のすずめは一アサリオンで売っているでしょう。そんなすずめの一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。またあなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんのすずめよりも優れた者です。ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないというような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」主イエスのことば


 日ごろキツネや熊を恐れてびくびく生活しているウサギやリスが、まったくこれらを怖がらなくなることがあるそうだ。それは山火事のときである。小動物たちは、山火事になると、これら捕食動物の前を平気で走って逃げるそうである。山火事というはるかに恐ろしいものがあるからである。
 人目が怖くていつもびくびくと生活をしている人が、案外多い。人が自分のことをどんな評判を立てているか、噂をしているのかということに、心悩ませて病気になってしまう人さえいる。けれども、真の神を畏れるようになるならば、人にびくびくしたりへつらったりする必要がなくなる。といって、利己的になるわけでもなく、むしろ、自由な心で人に喜んで奉仕するような生き方をすることが許されるようになる。
 神様を知らないと、人と比べて自分のほうが上だと優越感にひたったり、自分のほうがだめだと劣等感のとりこになったり、そういうむなしい思い煩いのなかで生涯をむだに過ごしてしまうことになる。筆者もかつてそうだった。
 けれども、こんなちっぽけな私という人間を天地の創造主が愛していてくださることを実感するようになると、劣等感や優越感から自由にされてしまった。この神を畏れる生活をしていると、安心である。
 一羽五円のすずめさえ父なる神の許しがなければ地に落ちることはない。また天の父の許しがなければ、髪の毛一本とて抜け落ちることはない。だとすれば、五十を過ぎて生え際が後退してきていることに、あまり悩むこともないのだ!(と自分を励ます。ところで「はげます」ということばは、なぜか「ハゲ増す」と同音である。)こんな自分が天地万物を造られた神様に愛されていると知るならば、なにを怖がる必要があるだろう。
 創造主があなたに注いでいてくださるという、この愛の実感は、ただイエス・キリストを通してのみ経験することができる。あなたにもイエス・キリストを知って欲しい。