苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

愛は律法を成就する

「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」
                   マタイ5:17−20


 弟子たちも敵対者もイエス様の自由で大胆な生き方を見て、旧約聖書をないがしろにするのではないかと誤解していたようです。だから、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」とおっしゃる。
 律法の受け取り方に二つの両極端の間違いがある。ひとつは律法主義である。それは律法をまもり点数をかせぐことによって、神の前に己の義を立てようということである。しかし、人間は罪をもっているからどうしても律法を守ることができないため、律法主義者はえてして罪を犯しても、犯さなかったことにする言葉の操作をおこなう偽善に陥ってしまう。
 律法の受け取り方のもう一つの間違いは、無律法主義である。行いによらず恵みによって救われたのだから、律法など要らないという態度である。だが、主イエスの愛の命令がアクセルなら、律法はブレーキのようなものである。ブレーキのない車に乗りたい人はいないだろう。あまりにも危険である。恵みによって救われたから律法は要らないというのは無謀である。
 律法には十戒をはじめとする道徳律法と、その命令を破ったばあいには動物犠牲をもって償うための祭儀律法があった。道徳律法はそれを守るか、あるいは、律法を破ってしまったときには、いけにえによって償うことで律法の要求は満たされたわけである。主イエスはどのように律法を成就なさるのか。主イエスは律法の要求をふたつの方法でまっとうされる。
 第一に、ご自分が十字架にかかってまことの犠牲となられて、私たちが神の前に律法をやぶったその罪を贖われた。これは旧約時代に予型として啓示された祭儀律法の完全な成就である。
 第二に、主イエスは、私たちに聖霊を注ぎ、恐怖からではなく、神と隣人を愛する動機をもって、積極的に神のみこころを行なうようにとアクセルを踏みたまう。律法が1ミリオン行けというとき、主イエスは神の子どもたちに2ミリオン行きなさいとおっしゃる。1ミリオン行く人は恐れながらいやいや行くが、2ミリオン行く神の子どもは喜び勇んで行く。こうして、主イエスは私たちを律法の呪いから解放した上で、聖霊のたまわる愛によって私たちをもちいて律法を十二分にまっとうなさるのである。