苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ヨハネ福音書の神名としてのエゴーエイミ

 ヨハネ福音書には、主イエスのエゴー・エイミ(英語でいえばI am)という表現が多い。中でも、「わたしは世の光である」、「わたしは羊飼いである」、「わたしはブドウの木である」における、世の光、羊飼い、ブドウの木といった補語を伴う用法でなく、補語のない絶対的な用法としてのエゴー・エイミという表現が興味深い。新改訳聖書2017はこのエゴーエイミを二重括弧に入れて明示した。

 

8章24節「それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」

  

8章28,29節「そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」

  

8章57,58節「そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

  

13章19節「1事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」

 

 

 ゲツセマネの園で敵がイエスを逮捕しにきたときにも、イエスはエゴーエイミと答えている。新改訳2017では文脈から「わたしがそれだ」と訳されているのであるが、このことばに対して、敵が倒れたとあるところを見ると、福音書記者はこの主のことばを特別な主の名の宣告として書いていると思われる。

18章5-8節「彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。

エスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」

 

 この絶対的用法としてのエゴー・エイミは、七十人訳旧約聖書出エジプト記3章14節の燃える柴の木の箇所で、主なる神が自己紹介をしたときの名なのである。

神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」