苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

歴史教科書の恐ろしさ・・・民族と国家の始まり

*教育の恐ろしさ
 教育というものは恐ろしいものだと、かつてある紳士と話していたときに思った。聖書の古さの話をしていたとき、私が「日本の歴史はまあせいぜい千七百年ほどですが・・・・。」と話したとたんに、「なにを言いますか。日本の歴史はすでに二千六百年以上ではありませんか。」と真顔でおっしゃったのである。この紳士、決して無学な人ではない。それどころか東京大学工学部を出た人物である。しかし、この方は若い日に神武天皇に始まる天皇中心の歴史を事実として教えられて数十年、それが真実であると思い込んでこられたのである。職業についてから学問的な歴史書を読む人は少ないだろう。それで、この紳士のばあいも、戦後五十年たっても歴史認識は戦前の皇国史観を改めるチャンスがなかったのである。
 あの時代、建国記念日紀元節と呼ばれ、天孫なる神武天皇が初代天皇として即位した日とされた。即位年は紀元前六六○年。しかし、神武天皇大和朝廷が皇室の歴史を飾るために作り出したフィクションである。歴史の事実としての天皇の始まりは、四―五世紀ころの大和地方の部族連合の首長、大王(おおきみ)である。だから、戦前は実際よりも千年ほどサバを読んで大和朝廷の古さ・正統性を教えていたことになる(角川『日本史辞典』)。
 以前書いたことを引用しておけば、「紀元後4世紀から7世紀、朝鮮半島三国時代、戦乱を避けて多くの人々がクニごと舟に乗ってこの東海の列島に移住してきて、あちこちに都市国家を造った。彼らを新渡来人と呼ぼう。有名どころでは、島根の出雲政権、岡山の吉備政権、奈良の大和政権。飛鳥、奈良の時代になると、吉田晶氏(岡山大)によれば、河内国の新渡来系氏族は、古市郡では12氏のうちの8氏、高安郡で18氏のうち12氏、安宿郡で8氏のうち6氏、交野郡で10氏のうち8氏、讃良郡で8氏のうち6氏、河内国においては計68氏の70%が新渡来系だったという。大和朝廷形成期、飛鳥や奈良時代の氏族階級の主流は新渡来人だった。」
 日本だけでなく、さまざまな国で支配者たちは自分がその国を治める正当な権利をもっていると民に思い込ませるために、王族の「歴史」を創作した。これは東西共通の支配者の習性といってよい。韓国にも天孫降臨を含む檀君神話があるし、古代エジプトでも王は現人神とされたし、スコットランドの王族はエジプトを起源とするという神話を持っている。
 小海にはその昔クジラが上ってきたという昔話があるが、実害はない。権力とは関係ない話だからだ。しかし、支配者が作り話を事実と偽って国民を洗脳するのは危険なことである。実際、かつて皇国史観に惑わされて、日本を神の国と思い込まされた世代は、ゆえなくアジアの隣国を軽侮した。軽侮していたから、侵略を罪と感じられなかった。もし日本が、どれほど過去、中国や朝鮮から多くの文化の恩沢を受けたかを教えられ、それをもとに独自の文化形成をしてきたという歴史の事実を教えられていたら、大陸の人たちを、ああは踏みつけにはできなかっただろう。
 右翼的歴史観も左翼的歴史観もごめんである。親としては、子供には本当にあったことを教えてほしいと思う。最近「新しい歴史教科書を作る会」という皇国史観にノスタルジーを抱く民族派団体の『国民の歴史』『国民の道徳』という本を読んで、そんなことを思った。


*民族とは国家とは
 ところで、そもそも民族とはなんだろう。民族主義者は民族を神聖視するが、聖書は民族の始まりについてなんと言っているだろう。聖書は民族の始まりは、人間の傲慢の罪に対する創造主のさばきにあるという。かつて人類が一民族・一言語だったとき、彼らは一致団結して神への反逆のシンボルとしてバベルの塔を建て始めた。そこで、神は彼らの傲慢を打ち砕くために、言葉を分けてしまわれた。結果、争いとなり、工事は中止され、諸民族が形成されることになったという。バベルの塔の事件である(創世記十、十一章)。
 というわけで、民族の起源は神聖なものでなく、むしろ傲慢という罪であることを思って、私たちは自民族絶対化という愚を犯してはならない。
 
 では、国家とはなにか。国家主義者は国を神聖視するが、聖書の国家観はきわめてドライである。神が人類を最初に造ったとき、国家という制度はなかった。創世記1,2章によれば、そのとき神がお定めになったことは、七日に一度神を礼拝すべきことと、結婚と、労働という三つである。国家というものが必要になったのは、人類が神に背いて堕落し、わがままになってしまったからにすぎない。殺人に対しては死刑をもって報いるべきだという定めの最初は、人類が大洪水の後再出発したときにノアに与えられた(創世記9章)。新約聖書ではローマ書13章に、神は国家を神のしもべとして立てて、剣を託して社会の秩序を維持させていると記されている。これを剣の権能と神学では呼ぶ。
 近世の始まろうとする時代、マキャベリは国家に必要なのはよい法律とよい武力であると言っている。日本でも16世紀には豊臣秀吉は刀狩をして国家として暴力を独占した。19世紀、マックス・ヴェーバーは、国家は法律を守らせるために暴力を独占し、暴力装置を備えていることが必要であるとした。
 誰もが正しい人ならば、制限速度の表示板だけ立てておけばそれで足りるのであるが、実際には、誰もが罪人だから表示板が立っているだけでは守ろうとしない。だから、その規則を守らせるために、罰則を定め、罰則を実行するために国は暴力(警察や刑務所)を備えているのである。自分自身を含め、情けない罪の現実を聖書はクールに見ているのである。
 というわけで、聖書によれば、本来、国家というのは愛の対象とするような麗しいものではなく、人間の罪の現実に対応するためにやむをえず建てられた制度にすぎない。
(通信小海???号に加筆)