「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」2テモテ3:15−16
序 同盟教団信仰告白文は1年かけて月に一度という予定ですが、先週29日に山口陽一先生が来られて戦時下の教会に関する話をされて、教会にとって聖書のみが唯一絶対の規範であるという信仰がいかに重要であるかという話をされたので、本日は、先週に続いて、信仰告白文の第一条を学びたいと思います。
「旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範である。」
1 唯一絶対の規範
8か条から成る信仰告白文において、その最初に聖書にかんする告白を私たちがするのはなぜでしょうか?それは、私たちが聖書を通してのみ、まことの神がどんなお方であるかを知ることができ、聖書を通してのみ人間は神の前にどういうものであるか知ることができ、聖書を通してのみ教会がどういうものであるかを知り、聖書を通してのみ私たちが神の前にどう生きるべきかを知ることができるからです。聖書は、私たちにとって真理の源泉なのです。ですから、まず信仰告白の第一番目に聖書について告白します。第二項からあとに告白することは、聖書に書かれている内容の要約です。
だからといって「聖書以外のところに真理はない。聖書以外にはどんな本も説教もすべて偽りだ」などと告白するわけではありません。たとえば、カルヴァンが書いた書物の中に、「神は創造主であり、かつ、救い主である」とあれば、それは真理です。ルターが「人が神の前に義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による。」と書いていたら、それは真理です。それは、これらの教えが聖書にかなっているからです。
「信仰と生活の唯一絶対の規範」と言われている「規範」ということばに注目してください。「規範」というのは、物差しという意味です。私たちは物差しでさまざまなものの寸法を測ります。あれは5センチ、これは50センチと。その物差しは変わることなく、世界共通です。そのように、聖書が唯一絶対の規範であるというのは、聖書は、信仰と生活にかんするさまざまな事柄について判断をするための物差しだという意味です。たとえば、神様はどういうお方か?イエス様はどういうお方なのか?人はどのようにして救われるのか?救われた人はどんなふうに生きていくべきなのか?という問いがあるときに、先達の神学書や説教集や信仰書にもよいことが書かれているでしょう。ですが、その神学書や信仰書に書かれたことが真理であるかどうかは、聖書を物差しとして判断しなければなりません。聖書の教えていることに一致しているならば、それは真理であり、聖書の教えに反していれば、それは真理ではないということです。
「誤りのない神のことばであある」というのは、聖書が唯一の規範であるという意味です。聖書がすべてを測る物差しなのですから、「科学的に聖書が正しいとか間違っている」と科学を物差しとして聖書を測ったり、「歴史学的に聖書が正しいとか間違っている」というふうに歴史学という人間の物差しで聖書を測ることはおかしなことです。逆に、聖書という物差しで、現代の科学のありかたや、歴史学のありかたを測り、正すのです。
歴史学のありかた、現代科学のありかたという例を上に挙げましたが、聖書が「唯一絶対の規範」という場合、その射程は、「信仰」だけでなく、「生活」の全領域を含みます。夫婦のありかた、親子のありかた、教育のありかた、趣味のありかた、経済生活のありかた、労働のありかた、芸術のありかた、国家のありかたなど、生活の全領域において聖書は唯一絶対の規範なのです。私たちは、聖書を規範として生活の全領域において神の栄光を現わすように主に召され、かつこの世に遣わされています。
2 旧新約聖書66巻
旧、新約聖書とは、みなさんが手に持っていらっしゃる旧約聖書39巻、新約聖書27巻のことを意味しています。原典は旧約聖書はヘブライ語(一部アラム語)で記され、新約聖書はギリシャ語で記されています。
旧約聖書は創世記から申命記をモーセ五書、また、トーラーと呼ばれて、旧約聖書全体の土台です。ヨシュア記からエステル記までは歴史書と言います。ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌は詩書と呼ばれます。イザヤ書からマラキ書までは預言書と呼ばれます。イエス様の時代に聖書とされたのはこれら39巻です。
新約聖書は、マタイからヨハネ福音書までが福音書。新約聖書の土台にあたります。使徒は歴史書。ローマからヨハネの手紙までが手紙。そして黙示録です。新約聖書正典の目録は200年頃に成立したムラトリ正典目録とほぼ一致しています。4世紀終わりのカルタゴ会議はそれを確認したにすぎません。
信仰告白でわざわざ「旧、新約聖書66巻」と告白するのは、66巻以外に聖書として付け加えて67巻にしたり、減らして65巻としてはならないからです。近年そういう紛らわしい巻物を付け足した聖書(新共同訳・続編付き)が出回っているので注意をしなければなりません。ローマ教会では、16世紀になってローマ教会がプロテスタント宗教改革に対抗して行ったトリエント公会議で、外典(アポクリファ)を第二正典としました。外典の中身は、旧約聖書はマラキ書で完結後、新約の時代がやってくるまでの400年間にイスラエル民族に起きた出来事がギリシャ語でしるされています。外典というのは、歴史を知る参考にはなり、信仰書として参考になる部分はあっても、神のことばではありません。イエス様は一度も外典から引用なさらなかったのです。
私たちは黙示録の末尾のみことばを心に留めておきましょう。
「22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。 22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示録22:18,19)
これは直接的には黙示録を指していることばですが、聖書全体に適用されるものです。
3 すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことば
次に「すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことば」であるという点についてです。霊感というのは、聖霊が聖書記者たちを動かして、これを記させた働きを意味しています。聖霊は聖書記者を単なる印刷機のように用いたのではなく、個性、能力、置かれた状況などすべてを有機的にもちいてこれを書かせられました。聖書は神のことばが、そこに含まれているというようなことではなく(部分霊感)、すべてが神の御霊によって霊感されて記録されたものです。その霊感のありかたを十全霊感と呼びます。また、聖書の啓示は漠然とした夢や思想というものでなく、言葉で与えられたものですから、聖書の霊感は十全なものであると同時に、言語霊感と呼ばれます。実際、思想というのは言語によって表現されるものです。
新約聖書にはしばしば旧約聖書から引用がなされています。イエス様もしばしば旧約聖書を引用なさいますが、その引用箇所を調べてまいりますと、イエス様はまちがいなく一字一句、旧約聖書は神のことばであるとして扱っていらっしゃることが明白です。
「5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」マタイ5:17,18
一字一句どころか、一点一画とさえイエス様はおっしゃいました。
私たちは聖書を読んでいて、時々よくわからないところに出くわすことがあるでしょう。その時には、軽率に「まちがっている」などと言わないで、いつか主がはっきり教えてくださる日が来るだろうという、聖書に対する謙遜な態度でいることが賢明です。
4 全体と中心
「神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える」
ここには、聖書の内容が、二つの面からまとめられています。1つは「神の救いのご計画の全体」ということばです。聖書には、万物と人間の創造と人間の堕落、しかし、救い主が送られ、十字架と復活によって私たちの罪の赦しの根拠を与え、そして、終わりの日には最後の審判が行われて、新しい天と新しい地が到来するという計画が啓示されています。神の救いの計画の全体です。聖書を読むに当たっては、その全貌を把握することが大事です。
同時に、私たちが聖書を読むにあたって、その全体のなかで、中心は何であるかをわきまえることが大事です。聖書全体が一言一句神のことばであるとはいえ、重要なところとそうでないところがあります。歴代誌の系図とか、レビ記の豚肉食べちゃだめという教えが、イエス様が十字架にかかってよみがえられた記事が同じ重要性をもっているわけではありません。
中心とは救い主イエス・キリストです。私たちの救い、この世界の全被造物の救いは、イエス・キリストというお方にかかっています。一番大事なのはイエス様の教えではなく、イエス・キリストというお方なのです。ここはものすごく大事な点なので強調しておきます。まず私たちは、自分の罪と無力を認めてイエス様を信じて救われた者として、イエス様の教えに生きていくのです。
また、従うべき教えという面ということを言えば、イエス様は律法の要約は、全身全霊をもって神を愛し、隣人を自分自身を愛するように愛することだと教えてくださいました。イエス様ご自身とイエス様の教えを中心として、聖書を理解することが大切です。
結び 信仰と生活の唯一絶対の規範
最後に聖書が「信仰と生活の唯一絶対の規範」であるという点をもう一度、戦後70年目ということとあわせて学びます。
最初にお話したように、4月29日、長野福音教会で宣教区セミナーが開かれ、山口陽一先生がダニエル書9章1−19節を中心に「バビロン捕囚の70年と日本の教会」という題でお話をしてくださいました。1941年、対米戦争が間もなく始まろうとするとき、日本基督教団が設立されました。当時、日本政府は戦争をする上で、「国民総動員運動」を展開し、学校、ラジオ放送、新聞、出版など全てをコントロールして、国民の思想・信条・言論・表現を統制しようとしました。その一貫として、神道、仏教、キリスト教など宗教団体を統廃合して、ピラミッド型の組織としてトップを握ればすべてを支配できるかたちに造りかえることをはかりました。プロテスタント・キリスト教会も多くの教派をむりやりまとめて日本基督教団をつくりました。日本同盟基督協会は、その第八部に所属しました。
1942年10月「日本基督教団戦時布教指針」には「ことに本教団は今次対戦勃発直前に成立したるものにしてまさに天業を翼賛し国家非常時局を克服せんがために天父の召命をこうむりたるものといわざるべからず」とあります。大東亜戦争に勝利するために神の召しを受けて成立した日本基督教団だと言ったのです。
その布教指針の綱領第一には「国体の本義に徹し大東亜戦争の目的完遂にまい進すべし」とあります。 さらに、「教団規則」第七条「生活綱領」には「皇国の道に従いて信仰に徹し各その分を尽くして皇運を扶翼し奉るべし」とあります。「国体の本義に徹し」といっても「皇国の道に従い」といっても同じ意味です。国体とは要するに「万世一系の現人神である天皇と天皇の先祖の教えを奉じて永遠にこれを統治する日本国のありかた」です。「現人神である天皇を中心とした国家神道の教えに従って、信仰に徹して、大東亜戦争に協力します」と言っているのです。実際には、いわゆる「国家神道」というのは、そんなに長い伝統があるものではなく、明治になって伊藤博文が江戸時代の国学者たちの諸説に倣ってにわか作りしたにすぎない国家崇拝宗教にすぎません。教団統理富田満牧師は、皇国の道にしたがって信仰に徹し、伊勢神宮に参拝して日本基督教団の繁栄を祈願するというとんでもない罪を犯したのでした。そして、アジア諸国のクリスチャンを神社参拝は偶像崇拝の罪にあたらないと、偽りの教えをもってたぶらかすという罪を犯しました。
「皇道の教え(国家神道)に従って信仰に徹する」と表明したのでした。これはプロテスタント教会として致命的な過ちでした。16世紀に聖書から逸脱していたローマ教会に対して、聖書に立ち返ったプロテスタント教会は、「教会の教えにしたがって」とさえ言わず、「聖書にしたがって」と告白するのです。「聖書は信仰と生活の唯一絶対の規範」なのです。しかし、戦時下のキリスト教会は富田満牧師をはじめとして、聖書という神がくださった唯一絶対の基準をないがしろにするとき、第一戒「あなたには、わたしのほかに他の神々があってはならない。」を破ったのです。神の被造物にすぎない天皇を神としてあがめるという罪を犯したのでした。
教会が聖書を権威付けたのではありません。教会は聖書の下にあるものなのです。教会は神のことばである聖書の下にへりくだり、悔い改めて、つねに聖書によって改革されていくべき(semper reformanda)なのです。
この朝、私たちは、聖書こそが、聖書のみが救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範であるという、信仰告白を確かなものとしましょう。
今一度、私たちの信仰告白第一条を朗読し、心に刻みましょう。
旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範である。