苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

すみれほどな小さき人に


  (間もなく出棺、中央通路の席がはずされた)

 昨日は、川崎経子師のお葬式に参列した。場所は、佐久市御代田の日本基督教団軽井沢追分教会。生前は一度もお目にかかったこともなかったのだが、知り合いがぜひ一緒にと勧めてくれたので、出かけた次第。
 葬儀は午後1時からだったが、少し遅れて一つ目の賛美歌の最中に到着したら、会堂はいっぱいで、空席は中央通路に並べた臨時の折りたたみ椅子席だけだった。結果、前から二列目の中央というすばらしい席をいただいてしまった。正面にはパイプオルガン、花が飾られた棺、その傍らに先生のお写真。ところが、写真のなかに先生と一緒にうちのロダと瓜二つのミニチュアダックスが写っていた。あとでうかがえば、ピュアという名の先生の愛犬だとのこと。
 司式は山本将信牧師(篠ノ井教会牧師、以前、佐久市岩村田教会の牧師で、そば名人)で、説教者は「いのちの家」の理事長小海基牧師だった。まるで、小海基督教会みたいな名である。でもコウミではなく、コカイと読むそうである。
 賛美歌を歌い、故人略歴紹介と説教が始まった。川崎先生は聖書のみことばのほかに「菫(すみれ)ほどな小さき人に生まれたし」という漱石の句を、生涯の座右の銘としていらした。中学、高校を東洋英和に学び、中央大学と大学院で英文学を学ばれたが、高校生のときすでに牧師をこころざさしておられた。お祖父さんが牧師だったそうである。しかし、父上は、娘が苦労のみ多い牧師となることに強く反対されたので、先生は時を待ち続けられた。「菫ほどな小さき人に生まれたし」は、その父上の書斎の掛け軸にあったことばで、これが先生の牧師職を願う動機となったという。不思議なことである。小海牧師は、主イエスの山上の説教の野のゆりの箇所を開かれた。

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」マタイ伝6章27〜30節

 パレスチナの野のゆりには、小さなすみれに通じるものがある。天の父が装ってくださる限りの装いをして、時が来たならば潔く焚きつけとなって世の人の役に立つ野のゆり。先生は、父上が逝去された後、夜間の日本聖書神学校に進み、50歳で牧師となった。それから山梨の都留市の谷村教会に仕え、その間に多くの学生が導かれ、4名が伝道職に就かれた。
 この都留の時代に、頼まれてひとりの青年を統一協会から出るように説得したことをきっかけに、多くの青年たちの救出の手伝いをすることになった。そして、22年間仕えた都留の教会を退いた後は、脱会後の人々の心のケアと社会復帰のために設立された小諸の「いのちの家」の初代所長となり、10年間奉仕された。カルトから向けられる敵意、誹謗中傷をあえて忍び、ひとりひとりの魂に寄り添うという、筆者など想像しただけでも髪の毛がぜんぶ抜けてしまいそうな働きに携わってこられた。
 また、ごく最近まで、小諸近辺の教会で講壇の御用を務めていらしたとのことで、10月14日、10月21日にそれぞれ佐久教会、信州中野教会で話されるご予定だった。その二編の丹念に記された肉筆の全文原稿の写しを参列者はいただいた。
  川崎経子師の愛唱賛美歌は331番は、師の献身の志をよく表わしている。

主にのみ十字架を負わせまつり
われ知らず顔に あるべきかは


十字架を負いにし 聖徒たちの
御国を喜ぶ 幸やいかに


わが身も勇みて 十字架を負い
死にいたるまでも 仕えまつらん


この世のまがさち いかにもあれ
栄えのかむりは 十字架にあり


   川崎経子師の最後の説教原稿


追記
 五十歳に牧師になられて三十二年間、みごとな献身のご生涯。「五十四歳で、そろそろ店じまいか」などと腑抜けたことを言っている場合ではないぞと、叱咤激励を受けた気分にもなった。