苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自由にする愛

「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。
 ただし、互いに愛し合うことについては別です。」ローマ書十三:八

 おもしろいことを言う人がいた。「借金をするときは貸してもらってありがとうという気持ちでいるのに、返す段になると、なんだかお金を取られるような気持ちになってしまうのはどういうことでしょう」というのである。まあ人間とはなんと自分勝手な感情を持ちがちなものであろうか。つくづく罪人である。
 ともかく、なんであれ人に借りができると、相手に対して卑屈になったり、心の縛られるようなことを感じがちなものである。だから、聖書は借りを作ってはいけないというわけだ。十数年来の友情も金の貸し借りをしたばかりに破綻してしまったというような話を聞くこともある。借りる者、貸した者のあいだには複雑微妙な感情が働くのだろう。だから、御言葉は「なんの借りもあってはなりません。」と勧める。

 「ただし、互いに愛し合うことについては別です」という。物や金の貸し借りは人の心を縛ってしまい、えてして人間関係を複雑にしてしまいがちだが、愛の借りはむしろ人を自由にするからである。愛の借りとは「ああ自分はこんなにも愛されているんだなあ。」という経験をすることである。そのとき、人は閉じこもっていた小さな殻から飛び出す勇気を得る。そして、不思議なことに、ありのまま受け入れられたという喜びは、人を内側から突き動かして、自発的な愛の応答をうながすことになる。
 もう30年も前になるが、私は、M牧師が仕える青梅の教会に、一年生の神学生として日曜ごとに通うことになった。ところが、神学校入学まもなく、神戸に住む父が食道癌で余命半年の宣告を受け、入院生活が始まった。そのためたびたび帰省をしなければならなくなったのである。私は教会に仕えるしもべであるから個人的な都合はすべて捨てて、教会奉仕をすべきなのに、たびたび帰省をして十分な奉仕ができないことに悩んでいた。そして、M先生は、きっと私を厳しく見ていらっしゃるのではないだろうかと内心びくびくしていたのである。 ところが、M先生はおっしゃった。「神学生にとっての最大の奉仕は、そこに礼拝者として存在するということです。何かの役に立つ立たないということ以前に、神様は、君の存在そのものを喜んでくださるのです。」
 その言葉から、先生が、なんの役にも立たない神学生である私の存在をも喜んでいてくださったのだということが伝わってきた。何が出来る出来ないで評価されるのでなく、そこに存在することを喜ばれるという経験をして、私のたましいは自由にされた。私はM先生に大きな大きな愛の借りを負っている。その大きな借りゆえに、私は自由にしていただいたのである。