昨日5月3日、教会の兄弟姉妹と安曇野にマイクロバスで遠足に行き、帰りに塩尻聖書教会を訪問してきました。あちこちに大雨警報、土砂災害注意報が出ているなかでしたが、不思議と守られて、雨もなく、菜の花畑に青空さえも見えて幸いな一日でした。
安曇野 菜の花畑と田植え
碌山美術館
17歳にして心臓を患い、30歳で地上の命を終えた荻原碌山のことば。
荻原碌山の若き日の恩師井口喜源治の記念館
大王わさび農園
なぜ「大王わさび農園」なのか?・・・かつて、ここ安曇野の地を八面大王が支配していました。ところが千二百年前、南から侵攻してきた「大陸族」が攻めて来ました。八面大王は勇戦奮闘しましたが、多勢に無勢、ついに滅ぼされてしまいます。八面大王があまりにも難敵であったので、その復活を恐れた「大陸族」は、彼の亡骸をばらばらにして、その胴体は農園にある塚の中に納めました。それで、この農園は大王わさび農園というそうです。
この「大陸族」は大和朝廷の将軍坂上田村麻呂だといわれます。私たちは大和朝廷側の記録しか見ることができないわけですが、それによると、八面大王は盗賊の親玉で地元民を苦しめていたので、征伐したことになってします。ただ、史実としては大和朝廷側の将軍が坂上田村麻呂であったかどうかは、史料的には立証できないようです。
八面大王が大盗賊で地元民を苦しめていたと言うのは、ほんとうかな?と思いました。八面大王側には言い分があったでしょうに、と。ま、こういうことは珍しくはありません。歴史は勝者が作ってきたわけです。
ただ、興味深く思ったのは、石碑に大和朝廷を「大陸族」と刻んであることでした。安曇野市の教育委員会は進んでるなあ、と。いまどき、天皇家が高天原から下ってきたと思っている人はどこにもいないでしょうし(いや意外といるかもしれませんが)、天皇の一族が先進文明のあった大陸からやってきた一部族であったことは誰もが認めるでしょうが、それを公然と石碑に刻むことは珍しいのではないでしょうか。公然の秘密を秘密でなくしてしまっているわけです。もしかしたら、古代、ヤマト族より先に北九州からやって来て、この地を拓いた安曇族の子孫としての誇りにかけて、刻んだのかもしれませんね。いや、実際、読めば読むほど、この文面からは安曇野の原住民の子孫としての誇り・熱意といったものがほとばしっています。
また、この大王神社の石碑と鳥居のすぐそばに、明仁天皇が皇太子時代にここを訪れて眺めたという庵があったのもおもしろいなと思いました。八面大王を滅ぼした大陸族の棟梁の子孫が、千数百年の時を隔てて視察に来たということになります。
わさびの花。蕗に似ていますが、アブラナ科だそうです。
水車小屋
塩尻聖書教会