はじめに
筆者が原子力発電の問題性について考えるようになったのは、1986年チェルノブイリ原発事故があった後、高木仁三郎氏の著書を読んだのが最初です。ですが、具体的な問題としてこれをとらえるようになったのは、2001年、2年に東海大地震との関連で中電浜岡原発の危険性を知るようになってからのことです。地震が迫っていることと、原発の危うさを学ぶようになって、筆者は運転差し止めのための署名運動に加わって、同盟教団の中でもその協力を求めました。
「眼鏡」として用いる旧約聖書創世記の枠組みは、2003年に母校東京基督神学校で、2006年に神戸神学館で行った集中講義「神・人・世界・歴史」で話したことです。
http://church.ne.jp/koumi_christ/shosai/soseki.pdf
全国の多くの反対運動の警告にもかかわらず、2007年中越沖地震による柏崎刈羽原発事故という警告にもかかわらず、また、それに基づいて国会で福島第一原発で全電源喪失事故の危険性があるという野党からの指摘があったにもかかわらず、政府も経産省も裁判所も大学も原発業界は一切耳を傾けることをせず、2011年3月11日の福島第一原発事故を迎えてしまいました。まことに残念です。
311事故後、原発問題を上記の講義ノートの枠にあてはめて見たというのが、2012年の福音主義神学会での講演原稿というわけです。
また、当日お渡ししたレジュメでは、話を短くするために、脚注に入れておいたものを本文中に戻してあります。(ほんとうはpdfにしてホームページに載せたいのですが、HPの更新の仕方、載せ方が分からなくなってしまいました。)
序
原発問題は、人間の罪性を根とし、科学・技術・経済・国家権力・国際政治などさまざまな側面を含んでいる。福音主義神学会は「聖書は信仰と生活の唯一絶対の基準である」と信仰告白しているのであるから、聖書、創世記1章から11章をアウトラインとして、原発問題について考えてみたい。
<アウトライン>
聖書を眼鏡として原発問題を読む
序
1 文化命令と人間の堕落・・・「慎み」と「貪り」(創世記1:27,28)(創世記2:15−17)
(1)文化命令・・・・・・・・・・「慎み」
(2)堕落と罪への傾向性・・・・・「貪り」
(3)人間の分と原子力発電
・西洋思想史上、人間の自律を強烈に表現した中世と近世の二人の人物
・人間の分と原発
2 諸技術はカイン族から生じた
(1) カインと都市の始まり(創世記4:16,17)
(2)技術の起源とその傾向性(創世記4:19−26)
3 バベルの塔・・・・国家権力と原発(創世記10:8-12、創世記11:1-9)
(1)技術が権力と結びつくとき
(2) 原発と核兵器は国家主導科学技術としてのみ可能な巨大技術である
(3) 原発における労働と生命の貪り(ヤコブ5:1-5)
(4) 国家が原発を欲する理由
(5) 帝国と属州(マタイ2:1-6)
(6) 原発マモニズムと数々の偽り(マタイ6:21−24)結論
<本文>
1. 文化命令と人間の堕落
「神は人をご自身のかたちにおいて創造された。神のかたちにおいて彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創世記1:27,28私訳)
「 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:15−17)
(1)文化命令・・・慎みをもって
創世記には二つの創造記事がある。第一の創造記事(1:1−2:3)が想定する最初の読者は、天空・夜・大気・太陽・大地・砂漠・ナイル川・海・野獣・植物・昆虫など世界のありとあらゆるものを神々 として崇めるエジプトから脱出してきたイスラエルの民である。彼らに対する、第一の創造記事の主要なメッセージは「創造主のみを礼拝し、偶像崇拝を避けよ」である。大気も海も大地も月星太陽も動植物も、ありとあらゆる物は神の作品であり、礼拝すべきはただ創造主のみである。
第一の創造記事のもう一つのメッセージは、人間は「神のかたちにおいて」造られた神の代理として、神の御心にしたがって他の被造物を支配する任務があるということである。すなわち、本来人間は自律的存在ではなく、神律的 存在であり、そのかぎりにおいて他の被造物を正しく支配できる。裏返して言えば、創造主を礼拝しない者は被造物の奴隷つまり偶像崇拝者となってしまう。ティリッヒの用語、神律theonomyを援用して表現すれば、神律的であることを捨て、自律autonomyを望む人間は、結果的には被造物に支配されるという他律heteronomyに陥る。ちなみに、nomyはギリシャ語nomosから来ていて、法という意味。
また、人間が創造主のかたちに造られたという事実は、人間が被造物を認識するための根拠である。認識が成立するためには、人間の知性と、被造界との間に、関係性が存在しなければならない。観念と対象の一致が真理である。両者の間に対応関係がないならば、「私による被造界の認識は単なる夢だ」という独我論に陥る 。大いなるロゴスである神は、被造物世界を造られたので被造物はロゴスを分有しており、人間をご自分に似た者として創造されたので、人間もロゴスを分有している。だからこそ、被造物世界に内在するロゴスと人間に内在するロゴスに対応関係がある。だから、人間の被造物認識には正当な根拠がある。これが聖書が告げる科学的認識の根拠である。アダムが動物たちに命名したのは、学的営みの始まりであると解されよう。アダムは最初の分類学者だった。
第二の創造記事(2:4−25)は、人間に焦点を絞る。ここでは神が人間にお与えになった園における被造物の管理のありかたと、結婚の定めが教えられる。主は人間に園を「耕し」かつ「守る」ことを命じられた。「耕す(アバド)」とは、「しもべ(エベド)」と同根のことばであるから、「世話をする」とも訳しえよう。本来、神が求めたまう被造物の支配とは暴君的支配ではない。また、被造物の管理は、本来、堕落後のあらずもがなの苦役ではなく、堕落前に与えられた祝福ある任務、文化命令である。
この文化命令には「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」という許可と、「しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは死ぬ。」という制限が伴っていた。園の所有者は神であり、人は園の管理人である。管理人は自律的にではなく、園の所有者である神の意向に沿って管理しなければならない。園の管理人にとって肝心なことは、自が分をわきまえる「慎み」である。これが文化命令遂行の原則である。
禁断の「善悪の知識の木」は神の人に対する権威のシンボルである。その名が意味することは、人は善悪を決定する権威をもってはおらず、神が善悪をお定めになる権威をもっているということである。人は神が定めた善悪の枠のなかで、自由といのちを経験する。もしその枠を越えて出るならば、「死」すなわち神との断絶という実を刈り取ることになる。
●しばしば言われる「西洋キリスト教が環境破壊の元凶であり、東洋的宗教は環境にやさしい」という俗説には歴史的根拠がないこと、真の環境破壊の原因についてはこちらを参照されたい。「環境にかんする聖書の教え」の第2項、第3項を参照。http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20101013/p1
(2)堕落と罪への傾向性・・・貪り
へびは、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)と誘惑した。実際、彼らが善悪の知識の木から食べたとき、神は「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」(同3:22)と仰せになっているから、「神のようになる」とは「善悪を知るようになる」と同義と解される。この文脈において「善悪を知る」とは、神ぬきの自律的存在となるという意味である。
戒めに背いて善悪の知識の木から盗って食べた結果、アダムとその子孫は次のような罪深い傾向性を帯びるようになった。人間はおのれを自律的存在として思い上がり、神の指図を受けず被造物を支配することを志す。人間としての慎みを忘れて、神の領域を侵そうとする「貪り」である。「貪り」とは己に属さないものを欲する不当な欲望を意味する。だが、その結果、人は逆に被造物を神々とあがめる偶像礼拝者となる。自律を目指して神律を拒否した人間は、皮肉にも他の被造物と同類になり、あるいは支配されることになる。神に対して傲慢になったネブカデネザル王が野獣の境涯に陥ったという記事は、この事態を教えている。ダニエル4:28-33
このことがみな、ネブカデネザル王の身に起こった。十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」
このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」
このことばは、ただちにネブカデネザルの上に成就した。彼は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになった。
また、堕落によって人間は「生まれつき、神と隣人とを憎む傾向にある 」(ハイデルベルク信仰問答5)ようになってしまった。すなわち、人は生まれつき利己的になり隣人を自分の道具とする傾向を持ち、隣人のものを貪り、自分の意に沿わない他者には殺意さえ抱くようになった。かくて最初の夫婦の子カインは弟アベルをねたみ、殺害してしまう。
(3)人間の分と原発
a. 西洋思想史上、人間の自律を強烈に表現した中世と近世の二人の人物
科学史家山本義隆は、17世紀科学革命以前までのヨーロッパでは、技術は自然には及ばないと考えられていたと指摘している。この状況に大きな変化をもたらした人物はルネサンス期、15世紀末フィレンツェに出現した天才ピコ・デラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola1463-1494)である。彼は『人間の尊厳について』を著し、人間は神に与えられた自由意志にしたがって何にでもなれるとした。神はアダムに次のように言う。「アダムよ、おまえは、いかなる束縛によっても制限されず、私がおまえをその手中に委ねたお前の自由意志に従っておまえの本性を決定すべきである。われわれは、おまえを天上的なものとしても、地上的なものとしても造らなかったが、それは、おまえ自身のいわば『自由意志を備えた名誉ある造形者・形成者』として、おまえが選び取る形をおまえ自身が作り出すためである。おまえは、下位のものどもである獣へと退化することもできるだろうし、また、上位のものどもである神的なものへと、おまえの決心によっては生まれ変わることもできるだろう。 」山本は「ピコにとって、人間は、宿命を甘受する受動的な存在ではなく、自律的に決意し選択し、主体的に世界に働きかける可能性を有する、神に許された存在であっ 」たという(山本義隆『福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』(みすず書房、2011年)p61)。
もうひとりは17世紀のルネ・デカルト(1596-1650)。デカルトは、従来の、古典の権威に根拠をおく「文字の学問」に飽きたりず、ユークリッド幾何学を理想として哲学体系を立てようとした。すなわち、明晰判明な公理を出発点として論理的演繹によって体系を築く方法である。彼が方法的懐疑によって一切を疑った結果、唯一疑いえない明晰判明な命題は、「我思うゆえに我あり」であったから、これを公理として演繹によって彼の体系を立てた。その中で、デカルトは「神」を立てることによって独我論に陥ることをまぬかれたが (『方法序説』第四部、『省察』第三部参照)、実は、彼の「神」は彼の体系を成り立たせるための張子の虎にすぎない。デカルトは『哲学原理』と『宇宙論』で、宇宙における天体の運動を説明するために渦動説を唱え、天体は宇宙に満ちて渦巻いている未知の物質エーテルに押されて動いているとした。だが、最初にエーテルが動くためにはその最初に動かす者としての神が要請される。これについて、パスカル(1623-1662)はデカルトの本質を見抜いて次のようにように「デカルトの神」を批判している。「わたしはデカルトをゆるすことができない。かれは、その哲学全体の中で、できれば神なんかはなしですませたいと、思ったことだろう。しかし、世界に動きを与えるために神に指でひとはじきしてもらわずにはいられなかった。そのあとでは、もう神なんかに用はなかったのだ。 」(B77、L語録2)
b.人間の分と原発
医療のⅩ線利用をかんがみれば、おそらく核エネルギー利用すべてが人間の分を越えたものと即断するわけには行くまい。だが、巨大なエネルギーを発する原子力発電は、人として扱える分を越えたことである。なぜなら、人間には、天災・テロ・人為的ミスによる破綻を想定すると、莫大なエネルギーと危険な放射能を放出する原子力発電システムを制御することはできないし、その上、原発から必然的に排出される放射性廃棄物を十万年単位の長期にわたって無毒化する能力も持ち合わせていないからである。
しかし、わが国では原発を制御可能だと思い上がり、これを50余基もこの地震列島に造り、そして、福島第一原発事故によって自らの生活する環境をも破壊してしまった。現在、政府は一方で、近々、静岡県から九州にわたるM.9.1の南海トラフ大地震がこの列島を襲う危険性を警戒を呼びかけながら、今なお、想定震源域の震央に位置する浜岡原発に12510本もの使用済み核燃料が貯蔵されたままであり (中部電力HPを参照http://www.chuden.co.jp/energy/hamaoka/hama_jisseki/shiyozumi/index.html?cid=ul_me)、さらに今後、各地の原発を順次再稼動させようとしている。それは、原発がなければ電力が不足するからではなく、電力会社の経営上の都合であり 、核保有国であろうとする国の指導者たちの意思ゆえでもあろう。
<関電の経営上の都合>
2012年4月24日大坂市エネルギー戦略会議で、電力会社が原発をやめられない本当の理由は、夏のピーク時の電力不足の問題でもなければ、技術的問題でもないと関電が明言している(http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1273.html)。関西電力が原発を再稼動させたい真の理由は、原発が廃炉ということになると、関電が経営破たんするからである。<関西電力の経営事情 2011年度決算>
☆原発を廃炉にすると資産が半減する
純資産(資産−負債) 1兆5298億円
原子力発電設備・核燃料 8907億円
だから、もし原発が使えないとなると、純資産は6391億円に激減する。
☆しかも、2011年度の赤字は2422億円である。
☆電力料金は総括原価方式であるから、電力料金収入は、1億5298億円×3%=約459億円から6391億円×3%=約192億円 に激減する。
今後原発以外の燃料で発電するとすれば、赤字はふえていく。さらに廃炉するためのコストも莫大である。原発が使えなければ、2〜3年で関電は経営破綻してしまう。
脱原発を国策とするならば、国として電力会社を支える責任がある。これまで国策として原発を進めてきた以上は。
我が国は、本来、道具であるはずの原発によって、国土の一部を事実上喪失し、住民は苦しめられ、国民は被曝による健康被害と再び起る原発事故を恐れながら、これをやめられなくなっている。道具に縛られてしまっているのである。自律を求めて他律に陥った姿である。
2 諸技術はカイン族から生じた
(1)都市
「それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。」(創世記4:16.17)
アダムとエバの子には、罪が遺伝していた。カインは自分の弟を殺害してしまう。彼は神の御顔を避けてエデンの東、ノデの地に住み着いた。ノデというのは、語源はnud(放浪する)だという。「放浪に住み着く」とは、なんと皮肉な表現ではないか。神に背を向けた者はどこに定住しても心はさまよっている。
カインは町を建てた。ジャック・エリュールは聖書全体を鳥瞰した都市の意味の研究で、「都市の歴史がカインによって始まるということは、数多ある些末事のひとつとみなすべきではないのだ。 」と指摘している(J.エリュール『都市の意味』田辺保訳、すぐ書房、1976年、原著1970年、p29)。都市は、カインによって建てられたことに始まり、後にはバベルの塔の事件で神のさばきを受けている。さらには、創世記は都市ソドムとゴモラがメソポタミアからの侵略軍によって苦しみを受け、最後には天変地異によって滅ぼされたことを記している。聖書に記されている諸都市の運命も同様である。都市というものは、戦争の標的あるいは自然災害の標的となって滅びる。
神に反抗する都市文明の始まりは、カインがエデンの東、放浪の地に築いた町であった。エリュール風に表現すれば、カインにおいて、都市は神なき人生の偽りの安住の空間である。聖書において、都市は単なる人と物の集合体ではない。それは、神に反抗する霊的な権力なのである。
(2)技術の起源とその傾向性
「エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。
さて、レメクはその妻たちに言った。
『アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。
私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、
ひとりの若者を殺した。
カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。』
アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュ と名づけた。そのとき、人々は【主】の御名によって祈ることを始めた。」(創世記4:19−26)
さて、カインがアベルを殺した後、神はアダムとエバに、アベルに代わる敬虔な子セツをお与えになった。セツはわが子にエノシュと名づけた。エノシュとは普通名詞で「人」という意味があり、特に人間の小ささ、弱さを表現する文脈で用いられる傾向がある。詩篇8:4参照。同じ語根アナーシュは「弱い、病弱である」の義である。
こうして人類の歴史は、己の力を信じ自己愛をもって神に反逆するカイン族の系譜(4:17−24)と、己の弱さを認め神を愛し主の御名を呼ぶセツ族の系譜(4:25,26)とに二分されて行く。「それゆえ、二つの愛が二つの国を造ったのである。すなわち、神を軽蔑するに至る自己愛(amor sui)が地的な国を造り、他方、自分を軽蔑するに至る神への愛(amor Dei)が天的な国を造ったのである。要するに、前者は自分を誇り、後者は主を誇る。なぜなら、前者は人間からの栄光を求めるが、後者にとっては神が良心の証人であり最大の栄光だからである。 」(『神の国』14巻28章、和泉治典訳)とアウグスティヌスがいう二つの国のである。
注目すべきは、華々しい技術文明が、神を畏れるセツ族ではなく、神に背を向けたカイン族の中から出てきたという記述である。神の慰めを拒んだカイン族は楽器を工夫することによって自らを慰め、神の養いを信じられないカイン族は家畜を飼うことで生活の安定を図り、神の守りを信頼できないカイン族は鉄と青銅の武器を工夫し、さらに敵を攻撃することを始めた。「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがない」(ルカ16:8)のである。
牧畜、音楽、金属の使用その他の技術は、やがて神の民も採用するところとなり、非難されてもいないから、諸技術は神が与えた一般恩恵と見なすことができよう(J.G.Vos,Genesis, Crown and Covenant pub.2006,p103,originally pub. Blue Banner Faith and Life,1954) 。だが、我々は、諸技術の発端がセツ族でなくカイン族にあったことがあえて啓示されていることの意味を注意深く考察する必要がある。カイン族にとっては、都市と諸技術は、神なしで彼らが快適に生きていくための術だった。我々は諸技術のもたらす便利さにふけって、神を見失う危険性があることに気づくべきである。
カイン族の中から最初の多重婚者レメクが登場した。彼は暴力を妻たちに自慢している。多重婚という現象は、神のかたちに造られた男女の全人格的な出会いとしての結婚を、罪に落ちた男女がたがいに相手を自分の欲求の達成のための道具に変えてしまったことの表れといえよう。男は女に性欲のはけ口を求め、女は男に虚栄的生活を求める。そこで支配的な原理は利己主義である。自己の欲望を満たすために隣人を利用し、その権利を踏みにじる「貪り」が、レメクの精神である。
本来、堕落前に与えられた文化命令の本来意図する被造物支配とは、園の管理人としての「慎み」をもち、隣人を愛し被造物を世話することであった。しかし、神なきカイン族に生まれたさまざまな技術は、人が神なしに生きるための術であり、己が欲求のために他を貪り支配する。そして人はえてして神に背を向けて生きるための手段として技術に頼り、そのうち技術に支配されてしまう。我々は核技術について考察を進めるにあたって、この点に留意しておきたい。
神の支配に服させない限り、技術は神の意志に反してゆく傾向がある。栗林輝夫は次のように述べている。「テクノロジーは、世俗的技術論者が主張する『価値中立的』ものではなく、神の意志に服して救済的となるか、それとも逸脱して不服従になるかのいずれかであって、神学はそれを慎重に計らなければならない 」(栗林輝夫「原発とテクノロジーの神学」(関西学院大学キリスト教と文化研究13:37−38、2012年3月31日)p39、http://kgur.kwansei.ac.jp/dspace/bitstream/10236/8919/1/13-3.pdf)。技術は「価値中立的でない」という指摘は重要である。技術は、カイン族から生まれたものである基本的傾向性ゆえに、ともすれば、神の意志に服させないかぎり人が神に背くための道具・偶像となってしまう。
明治以降の歩みにおいて、「和魂洋才」「技術立国」を旨として歩んで来たわが国では、技術の危険性ということについて反省したことがほとんどない。技術は人間生活を向上させて、飢えや貧困から国民を解放し、わが国を「一等国」に押し上げる善いものであるという楽観的な態度が普通であった。しかし、栗林が言うのには、「近代技術の揺籃地キリスト教ヨーロッパでは、技術が人間に益するか否かが、哲学的にも神学的にも熱く論じられて来た。はたして技術は人間を幸福にするか。いや、技術は人間を幸せにするどころか、破滅への道に誘っているのではないか。 」(栗林同上書p38)
3 バベルの塔
(1)技術が権力と結びつくとき
人間の技術には二面性がある。それは、技術が神の意志に服しているならば神と人とにとって有益なものであるが、神の支配から離れるならば、それは偶像となって、人間を神に背かせ社会を破壊する。この二面性が、創世記においてこのあとに続く二つの記事に、端的に表現されている。
一つ目はノアの箱舟の事件である(創世記6〜9章)。全人類が神に反逆して、神がこれを大洪水をもって滅ぼそうとされたとき、神はノアに箱舟を造って生き残るべき家族と被造物を救うように命じられた。ノアは神のことばに忠実に服従し 、神が示された設計図のとおりに箱舟を造り、彼の家族と被造物を救出した。神の支配に服した技術が救済的に用いられた例である。ノアの箱舟は技術の本来のあるべき姿を示唆している。
もう一つは、バベルの塔の事件である(創世記11章)。バベルの塔の事件は、技術が権力と富と結びついて巨大技術となった問題性を我々に教えている。創世記10章には大洪水の後にひろがった諸民族の系図が、11章にはバベルの塔の事件が記されている。11章は、10章諸民族が生じて各地に分かれ住むようになったことの原因譚だと解される。したがって、10章と11章は照合しながら読まれるべきである。さて、10章8節にはニムロデという注目すべき名が記されている。
「クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから『主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし』ということわざが起った。彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。彼はその地からアッスリヤに出て、ニネベ、レホボテイリ、カラ、 およびニネベとカラとの間にある大いなる町レセンを建てた。」(創世記10:8−12)
ニムロデは地上で最初の権力者であり、シナルの地を拠点として、次々に都市を築き、さらに版図を拡げていった。猟師であったニムロデの権力の源泉は、剣である。権力者は武力で人間集団を服属させ統率し、さらに他者の富を奪い取って富を集中させ、さらに自分に服属する人間集団を組織化して軍事力をさらに強化させて覇権を拡大してゆく。創世記記者は、11章ではシナルの地に塔を築いたのがニムロデその人であったとは述べてはいないが、文脈からして、ニムロデ当人か、あるいは彼の後継者がバベルの塔を築いたと考えるのが穏当であろう。
聖書は世俗権力(国家)にも二面性があると教えている。一面は神のしもべであり(ローマ13:1−7) 、もう一面は悪魔の手先である(黙示録13:1,2)。バベルの塔は強大な権力の宗教性を帯びたシンボルであった。権力者といえども、暴力と富だけで民を支配することはできない。黙示録13章は権力の内幕を露わにして、「海からの獣」すなわち権力者が、竜すなわちサタンから権威を受け、「地からの獣」すなわち偽預言者によってその権力を装飾することで支配を強化する習性があることを教えている。古来、東西の権力者たちの行動を見ればあきらかなように、彼らはある種の宗教性を帯びることによって、民のうちに権力者に対する自発的な畏怖を作り出すことによって、民を支配してきた。天にも届こうとするバベルの塔は、権力の自己神格化のシンボルにほかならない。権力者の傲慢は、「天」という神の領域までも侵そうと考えたほどであった。「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。 」(創世記12:4)
禁断の木の実を貪り、神の自分に対する主権を拒否したアダム、ついで、神に背を向けて去り、諸技術をもって自律を企てたカイン以来の反逆の罪は、大洪水を経てもなお命脈を保ち、権力者によるバベルの塔建設というかたちで再び立ち現れた。「その頂を天に届かせよう」というバベルの塔は、強大な軍事力と巨億の富とを手中にした権力者が、土木技術をもって表現した自己神像である。
バベルの塔であれ、後に築かれるメソポタミアのジグラッドやエジプトのピラミッドであれ、こうした古代の巨大建造物は単にすぐれた土木技術があれば実現するものではなく、技術が強大な権力と結びつくことによってのみ実現可能になったことであった。巨大技術というものは、巨億の富と、人間集団を組織し操ることのできる権力と結びついてはじめて、出現が可能となる。
(2)原発と核兵器は国家主導科学技術としてのみ可能な巨大技術である
科学史家山本義隆によれば、ヨーロッパ16世紀まで知的エリートたちの思弁的な論証知のみが高度なものとされ、職人の経験知は蔑まれていた。デカルトは『方法序説』で古典の権威に訴える「書物の学問」を批判したが、経験知を不確実として退けて、幾何学的推論にのみ学問の理想を見た点では中世的であり、パスカルに言わせれば「無益で不確実なデカルト 」だった。パスカル『パンセ』(L887、B78)。パスカル自身は、世界には多様な秩序ordreがあり、それぞれにふさわしい認識原理があるとしていた。神学は書物・著者の権威を、幾何学は演繹的論理を、自然学は帰納的実験を、人間の生は繊細の精神を、それぞれ認識原理とする。デカルトの無益・不確実さは、自然学から帰納的実験を退け演繹的論理を持ち込んだことに原因がある。
真の意味で近代の科学革命の嚆矢は「思弁と経験を結合する始めて仮説検証型の実験 」を行なったガリレオ・ガリレイ(1564-1642)である(山本義隆、上掲書p64)。彼はクリスティーナ大公妃への手紙(1615年)の中で次のように述べている。「そういうわけでありますから、自然の諸問題を論ずる場合は、聖書の章句の権威から出発すべきではなく、感覚による経験と必然的な証明をもとにすべきである、と私には思われます。 」(中央公論社世界の名著『ガリレオ』p102)とはいえ、以後ただちに科学が技術に応用されるようになったわけではなく、ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明する18世紀後半になっても技術が科学に先行し、理論があと追いしているという状態で、先行する技術に熱力学理論が追いついたのは19世紀半ばだったという(山本義隆、上掲書p69) 。
山本は、実験室で行なわれて得られた科学的理論の成果を工業規模での技術に統合しえた最初の例は、実に、マンハッタン計画における原子爆弾の製造だったと注目すべきことを述べている。「マンハッタン計画は、理論的に導かれ実験室での理想化された実験によって個々の原子核のレベルで確認された最先端物理学の成果を、工業規模に拡大し、前人未到の原子爆弾の製造という技術に統合するものであった 」(山本義隆、上掲書p79)。原爆製造は、到底、個々の研究所や大学や企業のなしえることではなく、ニューディール政策のノウハウをもった国家の主導によってのみ可能な巨大な事業であった。
さらに、山本はマンハッタン計画から生まれた軍産複合体は、戦後社会的影響力を増大させ、「アメリカ金融資本における『原子力の平和利用』をスローガンとする核産業のグローバルな展開も、国家主導という意味においてその発展的継続であった。 」(山本同上p78)とも指摘している。
わが国で原子力開発が民間企業に負わせられる形を取ってはいるものの、原発はいくつもの大企業にまたがってのみ実現可能な巨大プロジェクトであり、国家の主導がなければ実現しえないものである。費用一つ見ても、原発は一基4000億円ないし6000億円し、立地自治体の説得のためには莫大な電源立地対策交付金 が税金から投入される。資源エネルギー庁が発表しているモデルケースによれば、原発1基あたりの交付金は、電源立地対策交付金は、45年間に合計1215億円であり、さらに、原子力発電施設立地地域共生交付金25億円である(資源エネルギー庁HP「電源立地制度の概要」)。また、1981年度から2011年度までに青森県に注がれた核燃・原発マネーは合計約4兆5109億8100万円に上る(赤旗日曜版2012年10月7日号)。また、国民が原発に反対しないように、学界と教育界とマスメディアを用いて「安全神話」で洗脳し、これらすべてを可能とする法の整備もされなければならない。それでも、原発に反対する勢力は、暴力団 、検察 や裁判官 までも抱き込んで抑え込む必要があった。たとえば、石川県能登の珠洲原発建設にあたっては、関西電力と清水建設は用地買収にあたって、暴力団に協力を求め、暴力団長は見返りとして30億円請求している(鎌田慧『原発列島を行く』集英社2001)。経産省のプルサーマル計画に抗った前福島県知事佐藤栄佐久は、東京地検特捜部の冤罪によってその政治生命を絶たれた。2008年東京地裁、2009年東京高裁の判決は「賄賂がゼロの収賄罪」という前代未聞の有罪判決であった(佐藤栄佐久『福島原発の真実』平凡社新書2011年)。各地で行われる原発訴訟は、唯一の例外を除いてことごとく敗れて来た。伊方原発運転差し止め訴訟の最高裁判事の一人味村治(1924年- 2003年)は判決後、原発メーカー東芝に天下りしている。そして、これらすべてがいわゆる「原子力ムラ」の住民となる。
このように、原発は決して民間企業だけでなしうることではなく、国策としてのみ可能な巨大技術であった。それにしても、ただ電力が欲しいだけなら、なぜ、国家権力者はここまでして原発を渇望するのか?
(3)原発による労働と生命の貪り
アダムが被造物の管理者としての慎みを捨て、自分に属さない木の実から食べるという貪りの罪を犯して以来、人間は隣人のものをも貪るようになった。貪りとは、他者のものを己がものとする不当な欲望である。この貪りは、技術と権力と富が結びつくときにさらにはなはだしくなる。バベルの塔のみならず古代の巨大建造物の建設にはどれほどの奴隷たちの労働が搾取され血が流されたことだろうか。
原発に関して言えば、ウラン採掘現場、ウランの燃料加工、原発管理、廃棄物処理に至るまで、現場では金銭と生命の貪りが行なわれている。1992年にオーストリアのザルツブルクに、世界の先住民族による世界ウラン公聴会があった。会議では、ウラン採掘、核実験、さらに核廃棄物処理場も先住民の土地が選ばれて事実が報告された。カナダのデネー・インディアン、イヌイットら先住民の住むサスカチュワン州、米国のナバホ・インディアンたちの住む地域で彼らは採掘・精錬に携わり、被爆労働者からは多くの肺がん患者が出て、地域の河川・地下水・土壌も汚染され、食べ物・飲み水が汚染され多くの人々が発病している 。インド東部の先住民族の住むジャドゴダはウラン採掘、放射性廃棄物投棄によって、環境汚染が拡がり、住民に、ガン・白血病・流産や奇形が発生している 。他にもオーストラリアのアボリジニー、アフリカのニジェール、ナミビアなど全世界のウラン採掘現場の住民たちはカネと生命を引き換えに苦しんでいる。
こちらを参照されたい。
☆原水禁HP「ウラン採掘の段階から世界の先住民は核被害を受け続けている」http://www.peace-forum.com/gensuikin/news/110610date.html
☆森住卓「インド東部ジャドゴダ・ウラン鉱山の村 核に苦しむ先住民」http://www.morizumi-pj.com/jadogoda/jadogoda.html
今般の福島第一原発事故以降、日本国内の原子力発電所の維持管理においてもはなはだしい下層労働者のピンハネが横行していることは多くの人が知るところとなった。東電からは作業員の日給は一人10万円に近い金額が出ても、元請が一次業者に下請けに下ろす際の、作業員一人当たりの日給は二万五千円以内となり、それが四次、五次下請けの最下層作業員になると、日給八千円だという (日本弁護士連合会「原発労働」岩波ブックレット2012年、p9、淺川凌『福島原発でいま起きている本当のこと』宝島社2011年、も参照)。被ばく線量の管理のずさんさも指摘されている。線量がはなはだしく高い所で作業するときには、壊れた線量計を持たされたという数々の証言もある。労働者から、賃金と生命を搾り取って肥え太る業者たちにはいずれ神の怒りが下る(ヤコブ5:1-5) 。
(4)わが国の指導者が原発を欲してきた理由
先の戦争の原因のひとつは日本に石油がないということだった。戦後、資源小国の日本が工業立国するためにはエネルギー問題を解決しなければならないと考える人々は多かった。原発はそういう問題を一挙に解決するエネルギーであるかのごときキャンペーンが読売新聞によってなされ、多くの優秀な若者たちが原子工学科へと進んだ。しかし、この宣伝は嘘であった。なぜならウランという資源の埋蔵量はカロリーベースで石油の三分の一ほどしかないものであるからである。しかも、高速増殖炉には実現性がない。原子力発電には将来性はない。それでも、わが国政府が原発に執着して来たのはなぜであろうか。
☆小出裕章『化石燃料とウラン』
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/kouen/dent-02.pdf
近代国家は肥大して多方面の役割を担っているのだが、聖書に国家権力の本質はなにかと問うならば、ニムロデが「主の前に力ある猟師」だったとあるように、国家の力の源泉は「剣」にある。古代エジプトの壁画にも、偉大な王は勇敢な猟師として描かれている。ローマ書13章によれば、俗権の基本的務めは「剣」による悪の抑制 と徴税による富の再分配である。堕落後の人間の構成する社会においては、「剣」なくして社会秩序の維持はできないというのが聖書の見方である。
マキャベッリ(1469-1527)が、「すべての国にとって重要な土台となるのは、よい法律とよい武力とである 」(『君主論』12:1)としたのは、法は組織的暴力すなわち警察・軍隊を背景としてこそ実効性をもつからである。人間の「自然状態」は、フランス革命の指導思想を生み出したJ.J.ルソー(1712-1778)が『人間不平等起源論』で夢想したような平等で平和な状態ではなく、英国国教会の司祭の息子であったT.ホッブズ(1588-1679)が想定した「万人は万人に対しする闘争 」(T.ホッブズ『市民論De Cive』前書き。”bellum omnium contra omnes”)の状態であるから、国家には「物理的暴力行使の独占」「暴力装置」(M.ヴェーバー(1864−1920)講演『職業としての政治』)としての警察・軍が必要である 。このように権力と剣は不可分である。
だが、権力を握る者もまた罪に堕ちた人間であり、最初の権力者ニムロデ以来、覇権の拡大を欲して、より強力な武器を欲する傾向がある (申命17:16、1サムエル8:11,12)。わが国は原発導入以来、「原子力の平和利用 」(“atoms for peace”は1953年、米国大統領アイゼンハワーが国連総会で提言したフレーズ。)という看板を掲げて来て、原発と核武装を結び付けることはタブーとされてきたが、実際には、権力者が核技術にこだわり続けて来た真の理由は、核兵器に対する欲望である。岸信介、正力松太郎、中曽根康弘、安倍晋三ら、声高に愛国心を言い立ててきた国家権力者たちは、核兵器を求めて原発を推進した人々であった。1957年5月7日当時国務大臣であった岸信介は、参議院内閣委員会で次のように自衛核武装合憲論を展開した。「核兵器という言葉で用いられている各種の兵器を、私はことごとく技術的に承知いたしませんけれども、名前が核兵器であればそれが憲法違反だ、秋山委員のお考えはそういうふうなようでありますが、そういう性質のものじゃないのじゃないか。一方から言えば、われわれは、やはり憲法の精神は自衛ということであり、その自衛権の内容を持つ一つの力を備えていくというのが、今のわれわれの憲法解釈上それが当然できることである。 」(国会会議録検索システムより)
正力松太郎が日本に最初の原発を導入するにあたって、米国でなく英国の原発を選んだ理由は、米国が原子炉で生成されるプルトニウムの全量返還を求めたのに対し、英国はそれを求めなかったからである。それは「日本で核爆弾を製造しようとする場合、核分裂生成物質としては、現在、濃縮ウランの製造能力がないから、プルトニウムを材料とする他はない 」(有馬哲夫『原発と原爆「日・米・英」核武装の暗闘』文芸春秋,2012年、p145)からである。1970年『防衛白書』には、「小型の核兵器が自衛のために必要な最小限の実力以内のものであって、他国に侵略的脅威を与えないものであるならば、これを保有することは法理的に可能であるといえるが、政府はたとえ憲法上可能なものであっても、政策として核装備はしない方針をとっている 」(1970年「防衛白書」第二部日本防衛のあり方3−5)としている。つまり、政府見解は合憲的に核兵器を持ちうるということである。中曽根は佐藤内閣の科学技術庁長官時代に、核武装の研究をさせていた (『正論』2007年2月号)。
岸の孫、安倍晋三氏は、今回の福島第一原発事故に相当の直接的責任を負っている 政治家である。2006年12月、安倍政権下で、衆議院議員吉井英勝から「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険」が指摘されたが、安倍晋三は具体的対策を講じず、今回の事態を招いた。http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b165256.htm
安倍氏は内閣官房長官当時の2002年5月13日に早稲田大学で行われた講演で、「戦術核を使うということは昭和35年(1960年)の岸(信介)総理答弁で違憲ではない、と言う答弁がされています。 」(サンデー毎日2002.6.9)と祖父のことばを引用しつつ、戦術核の使用を肯定している。このように原発は核武装をもくろむ人々によって国策として推進されてきた。石破茂氏は、将来原子力発電をゼロにするとしても、わが国が潜在的核保有国であり続けるために、核技術の研究は継続すべきであると主張している (テレビ朝日2011年8月16日、報道ステーション・「原発シリーズわたしはこう思う」)。ちなみに、わが国の原発はすべて軽水炉であって、取り出されるのは、兵器級プルトニウムではない。しかし、<軽水炉の使用済み燃料→再処理→MOX燃料→高速増殖炉→再処理→兵器級プルトニウム>というプロセスを経て、兵器級プルトニウムへと変えることができる。
バベルの塔は、神の介入によって建設は中止されて砂漠の中に崩れ落ちていった。「安全神話」「平和利用」というベールで覆い隠されていた原発は、2011年3月11日の福島第一原発破綻によって、ベールを剥ぎ取られて、核兵器の材料の製造機としての素性 を露わにして牙をむき出してしまった。
(5)帝国と属州
地上最初の権力者ニムロデが、武力と富を蓄えたとき次々と版図を拡大していったように、権力者は覇権拡大を図る「貪り」の習性がある。黙示録13章に記される第一の獣が意味するローマ帝国も同様であった。帝国の支配下に置かれたイスラエルでは、どのような状況が生じただろうか。イエスがユダヤに降誕されたとき、イスラエルはローマの傀儡ヘロデ大王の支配下にあった。メシヤ誕生のニュースを東方の博士から知らされたとき、大王が恐れ惑った(マタイ2:3)のは当然だったが、大王がその幼子を取り殺すためにその誕生の場所をユダヤ人である「民の祭司長たち、学者たち」に尋ねると、彼らは唯々諾々と「ユダヤのベツレヘムです」と答えた。なぜだろうか?メシヤを待望していたはずの彼らは、実際にメシヤが来るとこれを拒んだ。彼らはローマ帝国の傀儡政権を軽蔑しつつも、その体制下で安定的に神殿経営をして既得権益にあずかっていた連中だからである(ヨハネ11:47-50参照)。
日本の原発問題の理解のためには、米国の世界戦略との関係にも目を留めなければならない。太平洋戦争後、今日にいたるまで、日本の政府官僚機構は政策決定において、対米追随路線と対米自立路線の揺れはあるものの常に米国の顔色をうかがい、その体制を維持することによって自らの権益を保ってきた 。元外務省情報局局長、孫崎享は『戦後史の正体』(創元社、2012年)で、米国からの圧力に対して、対米自立路線と米国追随路線の抗争史として戦後70年を説き明かしている。たとえば、最近、民主党政権が「新・国家エネルギー戦略」で脱原発の方向を明瞭に打ち出そうとしていたが、米国政府は閣議決定を見送るように圧力をかけたと報道されている 。
東京新聞 2012年9月22日。「原発ゼロ『変更余地残せ』閣議決定回避 米が要求
野田内閣が『二〇三〇年代に原発稼働ゼロ』を目指す戦略の閣議決定の是非を判断する直前、米政府側が閣議決定を見送るよう要求していたことが二十一日、政府内部への取材で分かった。米高官は日本側による事前説明の場で『法律にしたり、閣議決定して政策をしばり、見直せなくなることを懸念する』と述べ、将来の内閣を含めて日本が原発稼働ゼロの戦略を変える余地を残すよう求めていた。(中略)意見交換の中で米側は、日本の主権を尊重すると説明しながらも、米側の要求の根拠として『日本の核技術の衰退は、米国の原子力産業にも悪影響を与える』『再処理施設を稼働し続けたまま原発ゼロになるなら、プルトニウムが日本国内に蓄積され、軍事転用が可能な状況を生んでしまう』などと指摘。再三、米側の『国益』に反すると強調したという。 当初は、『原発稼働ゼロ』を求める国内世論を米側に説明していた野田内閣。しかし、米側は『政策をしばることなく、選挙で選ばれた人がいつでも政策を変えられる可能性を残すように』と揺さぶりを続けた。」
背景には、8月15日終戦記念日に発表された米国戦略国際問題研究所(CSIS)のリチャード・アーミテージRichard Armitage元国務副長官、ジョセフ・ナイJoseph S.Nyeハーバード大学教授を共同座長とした「The US-Japan Alliance --anchoring stability in Asia(通称アーミテージ・ナイ報告書 )」がある。http://csis.org/files/publication/120810_Armitage_USJapanAlliance_Web.pdf
このレポートは、日本に原発の維持を強力に迫っている。日本政府は米政府の圧力を受けて腰砕けとなり、結局、政権交代しても、2030年前半までに原発ゼロという政策に拘束力を持たせるための閣議決定を見送らざるをえなかった。詳細には踏み込めないが、原発問題については特に米国との関係を見落としてはならないことをここに指摘しておく。
(6)原発マモンと数々の偽り
富と科学技術が国家権力の下で集中されてはじめて巨大技術が実現可能となる。だから巨大技術としての原発には、必然的に莫大な富と拝金主義がともなう。主イエスはマモニズムという偶像崇拝の危険性を特筆された。
「あなたの宝のある所には、心もあるからである。目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:21−24)
マモンは物神化 されて、心の目すなわち知性を曇らせ、偽りに陥れる。「金銭を愛することはあらゆる悪の根 」(1テモテ6:10)である。悪魔は権力を操る(ルカ4:6、黙示録13:2)だけでなく 、「偽りの父」 (ヨハネ8:44)として金銭欲をもって人々を欺くので、マモンの虜になった人々の理性は正常に機能しなくなる。H.ドーイウェルトふうにいうならば、理性は自律しておらず宗教的根本的動因によってコントロールされる。拝金主義者はマモンに奉仕するために理性を働かせる。原発報道の中で、名だたる大学の教授連がマスメディアに登場して数々の嘘をついていたが、彼らは莫大な研究費を電力会社から得たり、天下り先を提供されてきた人々である。彼らの宗教的根本動因における「宗教」はマモニズムであろう。
また、パラダイム理論で有名なトーマス・クーン によれば、自然科学理論は伝統的に言われるように客観的認識ではない。科学者たち観察は条件付けられており、使用言語も学者集団の信念言語であって、その認識は必ずしも検証されているわけではなくて、自分のパラダイムに合うデータが選択されている(Thomas S.Kuhn(1922-96)、科学史家、主著『科学革命の構造』初版1962,第二版1970)。原発推進派の学者たちは、「原発安全神話」というパラダイムの中でしか、ものを言えなくなくなってしまった。彼らは、「事故」と言えばいいのに「事象」といい、「老朽化」は「高経年化」といい、「汚染水」は「滞留水」という信念言語をもちいて、原発がいかに危険なものであるかを他者にも自分たち自身にも隠蔽してしまっている。
「原発安全神話」にしがみつき、原発マモンに跪拝したのは電力会社と御用学者だけではない。一基4000億円から6000億円という巨大プロジェクトである原発には巨大な利権が生じ、そこには貪欲なシロアリが群がる。政治家はいうに及ばず、電力会社を天下り先とする官僚たち がいる。たとえば関西電力系列会社への天下り公務員は、国家公務員25名。出身省庁は国土交通省13人、経済産業省3人、環境省2人など。地方公務員の天下りは44名。警察16名、土木13名、消防10名。朝日新聞2012年4月10日。原発推進の発言をすれば一本300万円を供されるという評論家・タレントたち、電力会社を最大の広告主とするTV局・新聞社といったマスメディア、原発メーカー・鉄鋼メーカー、施工ゼネコンなどの経済界、原発立地自治体の有力者、立地自治体の反対派対策の暴力団、果ては警察・検察・最高裁判事まで含まれている。さらに、福島第一原発事故の後、従来の反省に基づいて作られた原子力規制委員会(田中俊一委員長)の、新たな安全基準検討チームの専門家6人のうち4人は、電力会社などからの報酬や寄付金などの受け取っている 。
「規制委専門家、6人中4人が寄付金や報酬」2012/11/03 【日経新聞】
原子力規制委員会(田中俊一委員長)は2日、原発の新たな安全基準検討チームの専門家6人について、電力会社などからの報酬や寄付金などの受け取り状況を公表した。4人が直近3〜4年間にそれぞれ300万〜2714万円を得ていた。 4人のうち大阪大大学院の山口彰教授は関西電力関連会社の原子力エンジニアリングから、名古屋大の山本章夫教授も同社などから、年間50万 円以上の報酬や謝礼を受け取った。寄付金や研究費は、山本教授が原発メーカーの三菱重工業などから少なくとも計2714万円、山口教授は日本原子力発電などから計1010万円を得ていた。 阿部豊筑波大教授は東京電力技術開発研究所などから計約500万円、日本原子力研究開発機構の杉山智之研究主幹も原子燃料工業から計約300万円を受け取った。 規制委は、対象が限定されない原発の安全基準などの策定に関わる専門家は、報酬や寄付金などを公開するよう求めているが、メンバーから除外する規定は設けていない。原子力機構の渡辺憲夫研究主席と明治大の勝田忠広専任准教授は受け取っていなかった。〔共同〕
わが国では、原発利権を守るための数々の偽りが、マスメディアや教科書を通して垂れ流しにされ、国民は洗脳されて来た。本来的には、民主主義社会において権力を監視する役割を担うべきNHK・民放と大新聞(格別、読売・産経・日経)は、記者クラブ制度によって政府に、原発マネーによって電力会社に飼い馴らされて、あたかも第二の獣(偽預言者)のように (黙示録13:11参照)、国民を欺いてきた。いわく「原発がなければ、日本の電気は足りない 」、いわく「原発は一番安価なエネルギーだ 」、いわく「M9の未曾有の地震だったから仕方ない。想定外だった 」、いわく「CO2を出さない原発は地球環境にやさしい 」、いわく「福島第一原発の原子炉は揺れには耐えたが、津波でやられた 」、いわく「原発には将来性がある 」、いわく、「2030年、原発ゼロなら電気代は2倍になる 」などと、数々の偽りで国民を欺いて来た。(原発のめぐる数々の偽りについてはこの文章の終わりを参照されたい。)
結論
アダムは、本来、園の所有者である神の下にある管理者としての慎みをもって、隣人を愛し被造物の世話をする任務を負っていた。しかし、その慎みを失って、神抜きで自ら神のようになろうとする貪りの罪を犯した。そのとき、彼は神を憎み、利己的になって隣人と自然環境をも貪る傾向性を帯びるようになった。アダム以後の人間は、その原罪を背負っている。
カイン族の記事は、人は、技術文明を獲得して、神抜きで自律することをますます求めるようになったことを示す。技術には二面性があり、神の御心に服させるならば救済的に用いられるが、神の支配を離れると神に代わる偶像的なものとなり人間と被造物を害するものとなる。
バベルの塔の記事は、国家にも神のしもべと悪魔の手先という二つの顔があることを示す。国家権力が技術を手にするとき、国策として巨大技術が実現する。権力には、その本性からして剣と富がつきものであるので、権力と結びついた巨大技術にもまた富と兵器が伴うことになる。マモンには貪りと偽りが伴うものなので、巨大技術である原発には被曝労働者の貪りと偽りが必然的にともなう。しかも、日本の原発には、覇権国としての米国というもう一つの権力が絡んでくる。
かくて、聖書の眼鏡で観察するとき、この国の権力者たちは原子力発電を、「平和利用」「安全神話」という看板を打ち立てて推進してきたが、実際には、原発は鉄鋼をコンクリートと嘘と貪欲で塗り固めた、電力と核兵器原料の製造施設なのである。
我々は、今回の事故が起こるまで、原発が本質的に聖書の教えに反していることに薄々気づきながら目を閉ざして、安易に便利のみを貪り、その任務を怠ってきた。このことをまず神の前に悔い改めるべきである。そして、今後は、エネルギー政策において、原子力によらない社会が実現するように、祈り、発言し、行動するものでありたい。
原発を巡る数々の偽り
●「原発がなければ電気は足りない」という偽り
このことを裏付ける資料の2つ紹介する。『AERA』2011年4月11日号から抜粋
日本の過去最高の電力需要は,2001年7月24日午後3時の1億8269万キロワットであって,その後,この記録は破られていない(当日の東京電力のほうは 6430万キロワットの需要に応じていた:こちらも東電での最高記録である)。
これは意外にも,日本の電力需要は,こんどの巨大地震で火力も被害を受けた当面の東電管内を別とすれば,原子力を除く既存の火力と水力発電だけで,電力消費の過去最高を補ってもなお,若干ではあってもお釣りがくる数字となっている。これに一般メーカーなどの自家発電をくわえると,過去最高の需要を相当に上まわる潤沢さである。原子力が欠けると電力需給はもたないという,いつのまにか人びとの頭にこびりついてしまった通念は,統計数字をみるかぎり誤りである(p63)。
以上は,火力発電・水力発電に関して必要な定期点検・補修,また降雨量なども考慮に入れても妥当する議論である。最近まで火力発電では実際に供給能力の半分程度しか稼働していない。一番問題なのは,年間のある一時期の,それもほんのわずかな時間帯の需要の突出まで〔2001年7月24日の最高記録がその好例〕面倒をみるために,ほかの季節での無駄な遊休化を承知しつつ,原発を始め各種発電所の建設がつづけられてきた(p63)。
●「原発は一番安価なエネルギーだ」という偽り
①原発設置・発電のコスト 大島堅一氏(立命館大学国際関係学部教授)の文章の要約。
http://www.videonews.com/on-demand/521530/001844.php
原発の商用利用が始まった1970年以降に原発にかかったコストの実績値を計算すれば、電力会社にとっては「原発は一番安い」が、利用者にとっては「原発は一番高い」。
発電コストとしてよく電力会社が出す数値04年に電気事業者連合会が経産省の審議会に提出した資料では、1キロワット時あたり、水力(揚水発電を除く一般水力)は11.9円、石油10.7円、天然ガス6.2円、石炭5.7円、そして原子力は5.3円としている。これは、稼働率を80%に設定するなど、ある一定の条件を想定して計算した値だ。
「見えないコスト」と「バックエンド費用」。ここでは前者のみ紹介。1970年〜2007年の約40年間について、実際に発電にかかったコストを、財政支出の国民負担についても合算すれば、1キロワット時あたりのコストは、原子力10.68円、火力9.90円、水力7.26円と、原子力はもっとも高い。さらに、事故を起こした福島第一原発廃炉のコストは7兆4700億円と見積もられる。さらに、事故の賠償金を本気で払えば、東電を何度破産させても足りない。(http://eco.nikkeibp.co.jp/article/report/20110509/106467/?P=1)
●「M9の未曾有の地震だったから仕方ない」「想定外」という偽り
今回の地震は岩手・宮城・福島沖のトラフが連動したという点で地震の規模がM9であったことは、日本においては未曾有であったといのうのは事実である。しかし、福島第一原発自体が受けた揺れ(400〜500ガル)と10メートルばかりの津波の規模は決して未曾有という大きさのものではない。安倍晋三内閣と東電が、コストを惜しんでなすべき備えをさせなかったから、津波災害は起きた。その責任逃れのためのウソである。
●「原発は地球環境にやさしい」という偽り
原発からは排出される莫大な温排水は、たとえば柏崎刈羽原発のばあい毎秒800トンもあり、利根川の水量にまさる。54基の原発から毎日捨てられる熱を合計すると、ほぼ1億キロワット。さらに、海水が温められれば水中から大量のCO2も放出される。
● 「福島第一原発の原子炉は揺れには耐えたが、津波でやられた」という偽り
3月11日の地震直後、津波が来るまえに、福島第一原発の1号機の原子炉圧力容器に出入りする管のうち(おそらく再循環系)が破断し、そこから冷却材である水が噴出し、メルトダウンにいたった。そのため、12日午前2時45分1号機格納容器の圧力は急上昇して8.4気圧になっている。この点を田中三彦氏が事故直後から指摘していたが、東電は隠し続けて5月末になってようやく認めた。
これは非常に大きな問題。政府は、原子炉は揺れには耐えられたという前提に立って、全国の原発に津波対策・電源対策のみを求めて、それをクリアすれば再稼動許可すると言っている。しかし、現実は揺れだけで原子炉の中核部分が壊れた。この欠陥はすべての原発の共通点である。この事実を隠しておきたかったのは、恐らく4月半ばベトナムへの原発輸出の道筋をつけるためである。
なおアーニー・ガンダーセンは、今般の原発事故のもっと根本的な原因は、冷却用の海水を汲み上げるポンプが破壊されたことにあると指摘している。どの原子炉でもポンプは水辺に設置せざるをえないので、ポンプはすべての原発に共通する弱点である。http://fairewinds.org/ja/content/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E6%82%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%82%82%E3%81%97%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84
●「原発には将来性がある」という偽り
化石燃料の埋蔵量の比較http://www.avionnet.info/wadai/110321.html
数字は1×10の16乗 k c a l のエネルギーに換算したもの。
高品位石炭・・・・・・6000 500 (左は究極埋蔵量、右は可採埋蔵量)
低品位石炭・・・・・・1700 260
オイルシェール・・・・・810 * (ただし近年、莫大に埋蔵されたものが採掘可能となり、シェール革命といわれる)
タールサンド・・・・・・240 *
石油・・・・・・・・・・294 150
天然ガス・・・・・・・・200 120(ただし近年、埋蔵量増加)
ウラン・・・・・・・・・110 20
(出典「原子力と共存できるか」:小出裕章/足立明著、かもがわ出版1985年。)
ウランを60倍に活用する高速増殖炉の夢は失敗に終わった。六ヶ所村は満杯で、使用済み核燃料の保管場所は、平均7.3年分しかない(広瀬隆「原子炉時限爆弾」p263)米国政府は放射性廃棄物の保管には100万年監視が必要と表明している。
● 読売新聞は「(原発)ゼロなら電気代倍増も」、産経新聞は「暮らしの負担さらに重く」と、あたかも原発を維持すれば電気代は現状が維持できるような印象を与える記事をもって、読者を欺いている。
政府は四者に、2人以上の世帯の平均、2010年を1とした場合を試算を依頼した。
慶大野村准教授は25%シナリオで1.7倍、ゼロシナリオで2.1倍、
大阪大学伴教授は25%シナリオで1.2倍、ゼロシナリオで1.5倍、
地球環境産業技術研究機構は25%シナリオで1.7倍、ゼロシナリオで2.0倍、
国立環境研究所は25%シナリオでもゼロシナリオでも電気代は1.4倍で同じであると試算している。
TBSニュースバード「そもそも総研」玉川徹氏の報告:『原発ゼロのせいで2030年電気代が2倍になるんでしょうか?』。元資料は経済産業省資源エネルギー庁「経済影響分析に係る感度分析の結果について」(2012年5月)であると思われる。http://www.enecho.meti.go.jp/info/committee/kihonmondai/23th/23-2-1.pdf
☆現実的なエネルギー政策についてはこちら☆
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20120630/p1