苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート4 1世紀の迫害(教会と国家)

1. 教会と国家の問題
(1)「教会と国家」4つのタイプ
 教会史を学ぶということは、「教会と国家」にかんする歴史を学ぶことであると言われるのを聞いたことがあるが、たしかにそれは過言ではない。教会と国家とが、具体的にどのような関係を持ってきたかという歴史である。教会と国家の関係については、大雑把に言って以下の4つのタイプの状態がある。
 第一は、国家権力が中心にあって、教会はその片隅にあるが、格別の注目はされていないという状況である。新約教会誕生当初のローマ帝国にとってのキリスト教会はこういう状態だった。
 第二は、教会の存在が国家にとって、うるさいほどの力を持ち始めるとき、国家は教会を迫害する。ネロに始まりデキウス帝にいたる迫害の時代の「教会と国家」。
 第三は、国家が教会を利用して、国民の精神的統合の道具としようとする状況。国家と教会が癒着した状態になる。すると、教会は真理を語ることが困難になる。313年ミラノ勅令以降。カエサルパピズム(皇帝教皇主義)の問題。
 第四は、教会と国家の力関係が拮抗しているような状況。中世ローマ教会の状況。

(2)「教会と国家」という課題は、旧約時代、新約時代を通じて、一貫する問題である。<旧約時代>
 世俗権力(剣の権能)の始まりは、創世記9章ノアの箱舟後とされる。権力というのは、堕落した世界において、最低限の秩序を維持するための必要悪である。イスラエルが国家を形成し始めた預言者サムエルが活躍した時代に、すでに王と預言者の役割に関するトラブルが生じている。Ⅰサムエル8-15章を熟読せよ。8章には王を持つことへの民の憧れと、その問題点。サウル王が祭祀職を犯すことによって、神からの処罰を受け倒されていく過程が記されている(1サム13:8−14)。
 やがて王国が確立すると、王と祭司の関係があり、そこに癒着が生じる。神殿礼拝を維持するためには、王からの経済的・物理的な保護・サポートが必要となったからである。このような状況下にあって、祭司たちは、ただしくみことばを語るべきであったが、必ずしもそうはできなくなってしまう。王にへつらい、王のために「平和だ」と告げる祭司たちとなった(Jer6:14;14:13)。
 北イスラエル王国のヤロブアム1世は、エルサレム神殿の礼拝に対抗して、国家宗教を作りだす(1列王記12:25-33)。王権と祭司が癒着した時代に、神は預言者を起こされた。イザヤ書エレミヤ書そして多くの小預言書には、その時代の問題が語られている。
 また、バビロン捕囚の先では異教国の王に仕える神の民の生き方がダニエル書には現れている。<新約聖書時代>
 新約聖書においても、ローマ帝国支配下イスラエル国家の問題と、ローマ帝国における福音宣教という課題がある。主イエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに。そして神のものは神に。」(Mk12:17)と。それから、ローマ書13章、黙示録13章が代表的テキスト。さらに使徒の働きにおける国家と教会にかんするもろもろの出来事にも注目すべし。
 教会と国家の問題は、宣教の現場に出ても常に意識しつづけなければならない、またせざるを得ない問題となる。国家の問題を意識しないで教会形成をしたとしたら、すべてをむなしくしてしまうだろう。
<参考>「教会と国家」http://gospel.sakura.ne.jp/wikiforj/index.php?%B6%B5%B2%F1%A4%C8%B9%F1%B2%C8%A1%DD%BF%E5%C1%F0%BD%A4%BC%A3
<推薦図書>ブルーダー『嵐の中の教会』、辻宣道『嵐の中の牧師たち』

2. 最初の迫害

(1)ユダヤ当局からの迫害
 教会の迫害というと、ローマ帝国による迫害が念頭に浮かぶ人が多いであろうが、歴史の中で初代教会が国家からの迫害を受けたのは、ユダヤ当局からのものであり、ステパノ、ヤコブが殉教した。教会はこれにどのように対応したであろうか。
 使徒4:16-20 、使徒5:29−32
 ユダヤ最高議会は、キリスト教会の伝道に対して禁止命令を出した。もしおとなしくただイエスを礼拝しているだけなら迫害はやんだであろう。しかし、彼らは伝道を続けたので、さらに迫害されていく。ときに「イスラム圏では法律で禁止されているから伝道はしてはいけない」などという人がいる。確認すべきことは、教会は、たとえ国法で禁じられたとしても、福音の宣教をやめてはならない。法律を破ってでも伝道すべきなのである。
 キリスト者は、基本的に国家の権威を尊重すべきであることはローマ書13章にも語られている。「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と主イエスも教えてくださった。神は、国家に対して治安維持のための警察権と、富の再分配のための徴税権をお与えになっている。けれども、国家は礼拝のこと、宣教のことに口出しをしてはならない。それは神が教会にたくされた分である。ウェストミンスター信仰告白20章と23章を参照せよ。
 したがって、教会は国家の偶像崇拝命令に従ってはならないし、伝道禁止命令にも従ってはならない。「神のみが良心の主であり、神は信仰または礼拝の事柄において、何事であれ御言葉に反するまたは御言葉の外にある人間の教えと戒めから良心を自由にされた。それで、良心を離れてこのような教えを信じまたは戒めに服従することは、良心の真の自由を裏切ることである。また盲従的信仰や絶対的・盲目的服従を要求することは、良心の自由と理性とを破壊することである。」WCF20:2

(2)ユダヤ人の新しい分派
 初期のキリスト教徒は自分たちは新しい宗教の信者であるとは考えていなかった。彼らは旧約聖書に預言されていたメシヤが来たと信じたのが自分たちであり、まだ来ていないと思い込んでいるにすぎないと考えていた。イエス自身、旧約聖書とは異なる新しい宗教を信じよと教えたのではない。旧約聖書の成就として新約があるのであるが、旧約聖書との連続性があり、新約の信徒はアブラハムの霊的な子孫だと自覚していたし、実際そうなのである。しかし、ユダヤ当局は、キリスト教会を異端であると見た。彼らはナザレのイエスをメシヤであるとは認めなかったからである。
 ローマ帝国からは、キリスト教会は当初ユダヤ教の新しい異端的分派にすぎないと見られていた。しかも、ユダヤ教ローマ帝国の保護政策の下にあったので、教会は守られ、キリスト教会の宣教もゆるされていた。当時、ユダヤ教はローマにおける公認宗教の一つとされていて、ユダヤ教徒にはエルサレム神殿への献金の自由、集会の自由、兵役免除など特権が与えられ保護されていた。70年にユダヤ戦争でエルサレムが破壊されるまで、こうした状況は続いた。 
ローマ政府は、ユダヤ教当局と教会との問題をユダヤ教内部の問題であるとみなしていた。帝国内の秩序が乱されないかぎりは、こうした宗教問題には関与しないというのがローマ帝国の基本的姿勢だった。ローマ総督ピラトもイエスの裁判についてそういう態度を示しているし、アカヤの地方総督ガリオも同様の態度を示している。
 「パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かってこう言った。「ユダヤ人の諸君。不正事件や悪質な犯罪のことであれば、私は当然、あなたがたの訴えを取り上げもしようが、あなたがたの、ことばや名称や律法に関する問題であるなら、自分たちで始末をつけるのがよかろう。私はそのようなことの裁判官にはなりたくない。」」使徒18:14,15 
 スエトニウス(スイトニアス)によれば「・・・ユダヤ人たちは、クレストウスの煽動の下にしきりに人心を撹乱したので、彼(クラウデオ)はこの人々をローマから追放した。」(ベッテンソンp23)とあるが、このクレストウスというのがキリストである。ユダヤ人の間に、イエスをキリストと信じるかどうかということで争いが起こったので、どちらを弾圧するというのでもなく、皇帝は追放したのである。

(3)皇帝ネロによる迫害64年AD  ベッテンソンpp22,23
 ローマ皇帝による教会迫害というと、暴君ネロが頭にすぐに浮かぶであろう。ネロがローマ皇帝として最初の迫害者であったから、印象強いのであろう。また、シェンキェビチの小説『クォ・ヴァディス』の影響であろうか。その迫害の中で、使徒ペテロ、パウロが殉教したと伝えられていることも、印象を深くしている理由であろう。しかし、その迫害はキリスト教徒の信仰を理由にしたとか、皇帝崇拝拒否のためであったとかいうものではなかった。であるから、本格的な<教会と国家の衝突>という意味での迫害ではなかったのである。有名な史料を読んでおくべきであろう。
 ネロは54ADに皇帝に就任。着任後しばらくは彼はまともな統治者であった。ところが、だんだんと自分が偉大な皇帝であり芸術家であると思い込むようになり、周囲の人々から疎まれるようになる。
 64年6月18日夜、ローマに大火が発生。このローマの大火はネロが都ローマを自分の思い通りに造り直すために引き起こしたものであるという噂が広がった。事実そうであったように思われれる。その矛先をかわすために、ネロはこの大火の下手人はキリスト教徒であるとし、残虐な扱いをした。その迫害のありさまは、タキトゥス年代記」15:44(ベッテンソンp22 英訳Tacitus,Annales)、スエニウス「ネロの生涯」16章Suetonius,Vita Neronis]
 それにしても、なぜキリスト教徒が犯人であるとされたときに、それが「そうだそうだ」と受け入れられる素地があったのだろう。それは、キリスト教徒の生活のあり方が、当時のローマ市民にとっては異様なものに映っていたからであろう。タキトゥスCornelius Tacitus(55-120AD)の『年代記』はキリスト教を「この有害な迷信」と呼んでいる。彼は「人類に対する憎しみのゆえに、罪あるものとされた。」という(ベッテンソン邦訳では「人類の憎しみ」とあるのは誤訳。正しくは「人類を憎む憎しみ」「人類への憎しみ」) 。きまじめなキリスト教徒の生き方は人類を敵視していると思われたらしい。
 フスト・ゴンサレスは「当時の社会での普通の活動、演劇や軍隊はもちろん手紙やスポーツに至るまで、それらのすべてが異教の礼拝と分かちがたく結びついていたために、キリスト教徒はそうした社会活動から遠ざからねばならなかったことを考えれば、彼らが反社会的とみなされ、『人類に対する敵視』を抱いていたという告発を受けたことも理解できるであろう。」と解説する。しかし、ネロによる迫害はローマ市に限られていたらしく、迫害の記録はほかの地域ではいっさい存在しない。単発的な組織化されない迫害であった。

(4)ドミティアヌス帝による迫害  
 ネロ帝は68年に廃位され自殺。そのあと、ウェスパシアヌス帝、その息子のティトス帝の時代はキリスト教は無視されていた。ティトスの後、皇帝となったのがドミティアヌス帝(51−96年)である。
 迫害の直接の原因は70年エルサレム神殿を失ったユダヤ人の一部が、従来エルサレム神殿への献金ローマ帝国の国庫に納付されることを拒んだことによる。皇帝は激怒し、ユダヤ人を迫害する。当時はまだユダヤ教キリスト教の区別がローマ帝国政府側からはなされていなかったために、ユダヤキリスト教徒も迫害されることになった。また、遠因としては、ドミティアヌスがローマの伝統をこよなく愛して、その回復を願っていたことにある。ローマの神々を拝むことをこばみ、伝統を否定しているユダヤ教徒キリスト教徒は憎むべき者たちだったのである。神々を礼拝しないキリスト教徒は、無神論者とみなされた。
 ヨハネは、この迫害の結果、パトモス島に流された。ローマ書においてパウロは国家権力の積極的意義を書いているが、黙示録においてはその国家権力がサタンのコントロール下にはいるとき恐るべき獣と化することが記されている。とはいえ、ドミティアヌス帝による迫害は、直接的な理由はキリスト教信仰に対するものではなかった。ユダヤ人の納税問題にかんすることであり、間接的にはローマの伝統との衝突だった。そして、その迫害は彼の治世とともに終わった。