苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・Ⅴ 二つの創造記事

1 キリスト教は環境破壊の元凶か?

 「キリスト教文明は環境破壊をしてきた。キリスト教は、人間に自然界を支配する権利があると教えているからである。それに引き換え、自然宗教は人間は自然の一部であると教え、自然に対する畏敬を教える。環境問題の深刻な今日、自然宗教に学ぶべきである。」
 この手の主張を知識人がテレビや新聞で語るのを聞いて、居心地の悪い思いをしたキリスト者が多いのではないでしょうか。同様の主張がしばしばされるので、ほとんど常識のようになっている観がなくもありません。しかし、この「常識」は事実なのでしょうか。
 素朴な問いを、読者にしてみたいのですが、あなたは仏教徒だったときは、ハイキングに行って山にゴミを捨てなかったけれど、クリスチャンになってからゴミを平気で捨てるようになったでしょうか?神社参拝をしていた頃は高山植物を踏みつけなかったけれど、クリスチャンになってから平気で踏みつけるようになったでしょうか?むしろ、逆ではないでしょうか。神様がくださった自然界ですから、たいせつにしようと考えるようになったのではありませんか。

2 環境破壊の歴史

キリスト教が環境破壊の元凶であり自然宗教は環境を保全するという主張は、歴史の事実に即した主張ではありません。史上最初の環境破壊はもろもろの神々を崇めていた古代メソポタミアで起こっています。メソポタミアは、かつては豊かな森でしたが、放牧地や農地を求めて森が切り開かれ、その結果、森林の蒸散作用がなくなったので雨雲ができず、雨が降らなくなりました。そこで、チグリス、ユーフラテス川から灌漑をしました。ところが、川の水には岩塩が溶け込んでいるため、やがて農地は塩害で草も生えない荒地となってしまったそうです。大規模な灌漑農法が農地に塩害をもたらすことは、今現在、アメリカ、オーストラリアが経験しつつあることです。農業には雨水が理想的なのです。
それはさておき、儒教道教や仏教の国、中国でも製鉄のために広大な森が消失しました。宮崎駿もののけ姫」でタタラ場周辺地域が荒地になっているのは、そのイメージでしょうね。また、万里の長城の建設のために森林は破壊されてゴビ砂漠ができたという説を読んだことがあります。
西欧での森林破壊を話題にする人は、森林に住むケルト人やゲルマン人を改宗させようとしたキリスト教の宣教師が彼らのあがめる巨木を切り倒した例をあげます。彼らは巨木を神と恐れてに動物や子どもをいけにえにささげていたので、そういう迷信から解放するためのパフォーマンスでした。しかし、これは森林破壊というレベルのことではありません。
実際に、西欧で森林破壊が起こったのは12世紀の農業革命のときでした。当時は温暖化と、耕作具の工夫や三圃制といった工夫で農地が急速に拡大しました。鬱蒼とした森に覆われていたヨーロッパは、今日見るように緩やかな丘陵に畑がひろがり、ところどころに林が見える風景に変わりました。西欧での次の環境破壊は16,17世紀専制君主たちの建艦競争によります。一つ軍艦を造ると一つ森が消えたといいます。軍艦は植民地争奪戦の道具でした。そして18世紀の産業革命以後は世界中で環境破壊がひろがりました。
環境破壊は宗教を問わず、経済第一主義によって行なわれて来たのです。度を越した欲望、つまり第十戒「むさぼりの罪」こそ環境破壊の元凶なのですからキリスト教徒も他宗教も環境破壊に無頓着であったという責任はあったとは言えるでしょう。

3 一つ目の創造記事

 創世記には、1章1節から2章3節までと、2章4節から25節までの、趣のことなる二つの創造記事があります。二つの創造記事は別の資料に基づいているとか、両者には矛盾があるという議論を展開することは、「聖書はすべて神の霊感によるものである」と信じる私たちにとっては、ほとんど無意味です。むしろ肝心なのは、神が何を意図されて、記者にこの二種類の創造記事を載せさせたのかと問うことです。
 創世記記者モーセが執筆当時想定した直接の読者はだれでしょうか。イスラエルの民です。彼らの生きた時代、オリエントでは自然界のありとあらゆるものが神々として礼拝されていました。太陽、月、星も、大河ナイルも、大木も、空を飛ぶ鳥も、地に群れる野獣たちも、地を這うフンコロガシという昆虫までも神々として礼拝されていました。そういう世界に住む読者に対して、創世記第一章の記事は二つのメッセージを明確に語っています。第一は、これらの自然界のもろもろのものたちは、すべて創造主の作品であるから、それなりの価値があるが、神々ではない。創造主のみを礼拝せよということ。第二は、人間は創造主のかたちにしたがって造られた者であるのだから、被造物に支配されているかのように被造物崇拝といった愚かしいことをしてはならない。むしろ、神の作品であるこれら被造物を正しく治めなさいということです。
 実際、今日でも、環境問題に取り組んでいる人々の多くが自然宗教に陥っています。「地球は母なる神ガイアです。母なる神を苦しめてはいけません」といって、世界中でおまじないしているニューエイジャーたちがいます。ちなみにガイアとはギリシャ神話の大地母神の名です。
 たしかに、人間は被造物であるという点で、他の自然界のものたちと同じですが、同時に、人間は神のかたちにしたがって造られているという点において、他の自然界のものたちと区別され、それらの上に立てられているのです。石や大木や動物や太陽などにひれ伏してはなりません。それはサタンの罠です。

4 二つ目の創造記事

創世記第二章の創造記事は、神の息を吹き込まれ神のかたちにしたがって造られた私たち人間が、どのように神に託された被造物世界を治めるべきなのかということが、もう少し具体的に記されています。
第一は、私たちはこの世界に神が用意された可能性を開発利用してよいのだということです。新改訳聖書は2章5節を「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。」と正確に訳しています。ポイントは末尾の「からである」です。人間が土地を耕してこそ、この世界はそのうちに創造主が秘めたもうた可能性を発揮することができるという意味の「からである」でしょう。また、2章11―12節に金、ベドラハ、しまめのうといった地下資源について触れられているのも同じ趣旨です。
第二は、15節「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」です。神は私たちに、地を耕すとともに、これを守ることを命じていらっしゃるのです。被造物世界を耕して作物を実らせてその可能性を引き出すとともに、これを守ることが私たち人間の任務です。
このように二つの創造記事は、それぞれ自然崇拝の罠に陥るなという警告と、適切な世界管理について教えています。