苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

生き物たちの「人格性」について

1.「人格性」を感じさせる動物たち

 もう十何年か前、熊本に出かけたとき島原のイルカ・ウォッチングに連れて行ってもらったことがある。驚いた。私はイルカの餌付けをしているのだろうと思っていたのだが、そうではなかった。餌を与えるわけでもないのに、イルカたちはただ人間との交流を求めて集まってきて、ジャンプしたりひねりを入れたりおびれでバチャバチャしたり、思い思いに工夫して芸を見せてくれるのである。船が去ってゆくときには、船の両側をジャンプしながら泳いで来て、別れを惜しんでいた。あきらかに人間との交流を楽しんでいるのだった。
 最近、このブログで紹介したが、タイ国には見事な絵を描くゾウたちがいることを知った。作品は自画像的なものもあれば、風景画もある。下手な人間が描くよりもうまかったりする。聞くところによると千葉にも、そういうゾウがいるという。
https://www.youtube.com/watch?v=bomShGt4Pzo
 また、あるメスのゴリラに手話を教えることで、単語を並べてある程度のコミュニケーションをとることができているという事例もある。そのゴリラのペットの猫が交通事故で死んでしまったとき、ゴリラは悲嘆にくれてことばを失っていたが、少し落ち着くと、対話者にその心境を手話で単語を並べて伝えていた。 
 そしてダウン症児のジム君とラブラドールの交流。
 人間以外の動物たちも、それぞれに真善美を求めるある種の人格性・精神性をもっている。 


2.私たちはデカルトの動物機械論の影響を受けているのではないか

 <創造主である神は無限であり、被造物は有限であり、被造物である人間もまた有限である。しかし、人間は人格的な神に似た者として造られたがゆえに人格的な存在であり、その点において他の被造物とは異なっている。>従来、おおよそキリスト教的な世界観では、このような理解がされてきた。
 だが、問題がある。それは人間以外の他の被造物に関する見方が粗雑すぎて、これは聖書的というよりもむしろデカルト主義の影響を受けているのではないかと思われる点である。デカルトは、神は無限の精神であり、有限な実体としては精神と物体があるとした。そして、人間は精神と物体(機械)の綜合であるが、動物は精神のない物体(機械)であるとした。
 しかし、聖書的な見方からすれば、人間以外の被造物は、「神のかたち」に似せて造られた人間とは次元がちがう。また、被造物のなかでもそれぞれにレベルがあるにしても、それぞれに人格的な神の作品としての性格を帯びていると見るほうが適切ではなかろうか。
 たとえばダ・ビンチが描いたモナリザという絵は、彼の人格のある面がが表現されていると考えるのが当たり前のように。たしかに、物質的側面から言えば、モナリザも「キャンバス上の絵の具の集合体にすぎない」ということになろうが、それは馬鹿げた言明だろう。それに類することを、われわれは人間以外の被造物を見るときに行なってきたのではなかろうか。


3.生き物にかんする聖書のことば

 この問題を聖書から考えるにあたって、手がかりとなる聖書箇所を思いつくままに列挙してみよう。
 ノア契約はすべて生きているものを対象とした契約であった(創世記9章9−16節)。
 堕落前へびは女に語りかけ、女は不思議がりもせずに応答した(創世記3章1−5節)。
 ロバがバラムに向かってしゃべった(民数22章21−30節)。
 安息日に休ませるべきものは人間だけでなく、家畜も含まれている(出エジプト20章10節)。
 アダム堕落以来、全被造物が束縛の下にうめいている(ローマ8章19−22節)。

 終末において全被造物が贖われたありさま(イザヤ11章6−9節)。


追記 同日>
 フランシス・シェーファーの定式化されたような言い回しで、<無限の人格神に似せて造られた人間は、有限の人格的存在であり、他の被造物は人格的存在ではない>というのがありました。
 「神のかたちにおいて」造られたのが人間のみであると言うのは、確かに創世記1章の記述です。しかし、人格神に似せられた人間のみが人格的存在であり、その他の生物の「人格性」を全否定するというのが、大雑把すぎるのだと思います。それでは石ころも野の花もイルカも同じカテゴリーにはいってしまいます。
 創世記1章の記述も、無生物と植物的生命と動物的生命と人間は創造において区別されています。また、食物としてよいものとして当初は植物のみが許されたという点を見ても、動物と植物の区別があります。

 「神のかたち=人格」という定式がまちがっていたといってもよいかもしれません。「神のかたち」は新約聖書コロサイ1章15節に啓示されたところによれば、御子のことを意味しています。