苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

福音宣教の同労者

            ピリピ1:1−11
             2011年7月3日 小海主日礼拝
「1:1キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
1:2わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。」


1. ピリピ書紹介

ピリピという町は、マケドニヤ半島に位置していて、アレクサンドロス大王のマケドニヤの王フィリッポスの名にちなんで付けられました。また、ローマ帝国の時代になるとピリピという町は天領すなわち、ローマ帝国政府が直接に統治する町となっていました。
日本でもかつてあちこちに幕府の天領がありました。たとえば長野県ではヒノキを産する木曾は、天領とされていましたし、岐阜の高山も同じような理由で天領とされていました。天領地の住人は、自分たちは特別なローマ市民であるという少々気位の高いところがあったようです。
 それを配慮してかパウロは「私たちの国籍は天にあります」と高らかに、この手紙の中で述べているところがあります。ローマの国籍を誇るのでなく、天の御国の国籍を誇ってこそクリスチャンである、と。

 この手紙は、「キリスト・イエスのしもべパウロとテモテから」と記されています。テモテとはパウロが「信仰による愛するわが子」と呼んだ人物です。あるいは、いつものようにこの手紙はパウロが語り、テモテが書くという口述筆記であったろうと思われます。
パウロはこの時、信仰のゆえに幽閉されていましたから、本書はエペソ書、コロサイ書、ピレモン書とならんで獄中書簡と呼ばれています。1章7節、13節から17節には、そのことが触れられています。場所はローマです。というのは、1章13節「親衛隊の全員」とあり、4章22節「カイザルの家の者たち」とあるからです。親衛隊というのは、カイザルに近く仕える兵士たちです。ローマのカイザルのそばにいるということのしるしですね。
使徒の働きで、パウロがカイザルに上訴してローマに護送されるうちに、百人隊長に信頼されるようになっていったようすが書かれていました。同じように、彼は囚人ですが、カイザルのそば近く仕える親衛隊とも近しく交流する機会があったのでしょう。カイザルの家の者たちも、パウロに耳を傾け、イエス様を知るようになっていたわけです。すばらしいですねえ。
転んでもただでは起きないパウロです。逮捕され、投獄されて、パウロはますますチャンスをいかして伝道をしていました。パウロにとって、どこに身を置かれているかということは、伝道をする上では、そこが無人島でないかぎり、問題ないことでした。とにかく身の回りにイエス様の福音を知らない人がいれば、その人に福音を伝えることができるのです。
あるアメリカの大手靴メーカーが、アフリカのひとつの国に二人のセールスマンを送り込みました。一人は帰ってくると「だめです。誰も靴をはいていません。」と報告しました。でももう一人は帰ってくると、目を輝かせていいました。「すばらしいです。誰も靴を履いていません。みんなに履かせることができます。」

 あて先としては「聖徒たち、監督と執事たち」とあります。聖徒とはクリスチャンのことです。「監督と執事」とありますのは、牧師と役員さんたちという意味です。ピリピの教会はこのときすでに、ある程度の組織を備えていたのだということが伺えます。
 人が集い、神様を礼拝し、喜びも悲しみも共有し食べ物も共有して生活するためには、当然交通整理が必要です。それがないと混乱してしまいますから。そういうわけで、神様はモーセの時代にはイテロという人からの進言に基づいて組織化して群れとしての働きができるようになりました。ピリピもスタートはごく小さな群れでしたが、やがて福音が伝えられて成長し、やがて世話役が必要となり、監督・執事が立てられるようになっていったことがわかります。

2. 感謝と喜び

 ピリピ教会のスタートのことを使徒は思い出しながら、感謝と喜びにあふれています。ピリピ書は別名「喜びの手紙」と呼ばれます。次のように書いています。「1:3わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、」
 ピリピはヨーロッパに福音が伝えられ、教会が始まった最初の記念すべき町です。パウロは第二回伝道旅行に出かけたときの心積もりとしては、小アジア半島でもっと宣教の拠点である教会をしっかりと建て上げてからヨーロッパに行こうということでしたが、神様のご計画は異なっていました。神様はパウロの体調不良などさまざまなことを用いてパウロを海峡の向こうにマケドニヤ半島が見える港町トロアスへと導き、そこでギリシャ人の医者ルカとの出会いを与えました。パウロは、ここでルカからマケドニヤのようすを聞かされ、夜、夢のなかではマケドニヤの叫びを聞いて、これは主がわたしを海を越えてヨーロッパに来いと呼んでいらっしゃるのだと確信したのでした。そうしてシラスと医者ルカといっしょに、マケドニヤに渡り、最初に伝道した大きな町がここピリピでした。
 パウロはピリピに入ると、人々が礼拝している川原に出かけました。ユダヤ人たちは各地にシナゴーグを造りましたが、ピリピにはまだそれがなかったのです。川原で律法の書が朗読されて礼拝が捧げられているうちに、ユダヤ人だけでなく異邦人も聖書に啓示された神をあがめるようになっていたようです。そこにパウロがやって来て、ナザレのイエスこそがあなたがたが待ち望んでいるメシヤであると伝えたところ、主がそこにいた紫布の商人ルデヤという女性の心を開き、パウロの語ることばを神のことばとして聞くことができるようにしました。そうして、ルデヤは大喜びでパウロたちに、自分のうちにきて泊まり、ここを拠点としてピリピに伝道してくださいと勧めたのでした。こういうわけでピリピ宣教の初穂はルデヤです。
 パウロはシラスが、ルデヤの家を拠点としてピリピの町に福音を伝えておりましたら、妨害が起こりました。悪霊の力で占いをしていた女奴隷をパウロが戒めたところ、彼女は悪霊から解放されたので、占いができなくなりました。それを怒った奴隷の主人はパウロを警察に訴えたので、警察はちゃんと取り調べもせずにパウロとシラスを逮捕して鞭打って、足かせをつけて投獄してしまいます。
 その夜のこと、大きな地震が起こり牢屋の扉がことごとく開き、足かせも外れてしまいました。それを見た牢屋の看守をしていた番兵は自殺を図りましたが、すんでのところでパウロたちに止められて、「先生たち。救われるために何をしたらいいのでしょう。」と質問しましたので、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とパウロは叫びました。こうして、看守とその家族は救われて、ピリピ教会のメンバーに彼ら家族も加えられたのです。

 以上が使徒の働きに記されている、ピリピ宣教の発端でした。印象深い出来事がこのヨーロッパ宣教の最初の地ピリピであったのです。あのような小さなスタートだったけれども、ピリピ教会は確実に人々が救われて、神の家族が増えて行きました。教会は長老と執事たちを備えるほどのサイズにも成長していました。そのことを思えば、パウロは懐かしいピリピの兄弟姉妹たちのことを主に感謝しないではいられないのです。

3.宣教の同労者に
 特にパウロがピリピ教会のことを心にとめて感謝していたのは、5節6節にあるように、最初の日から今日までパウロの福音宣教に協力してきてくれたからでした。「 1:5あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。」
 パウロはそれほど長くピリピにとどまっていたわけではありません。しかし、ピリピの兄弟姉妹はパウロが去った後も、ずっとパウロのことを心に留めていて祈って支えていました。そうしてパウロが行く先々で伝道することを物心両面から支えたのでした。「4:14しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた。 4:15ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。 4:16またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。」
さらにパウロがローマに軟禁状態にある不自由を思って、ピリピ教会の代表としてエパフロデトを派遣したのです。「2:25しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。」

このように祈りと物質的経済的な支援と、さらに人までも送って支えられたからこそ、パウロはどんなに厳しい状況に置かれてもくじけることなく伝道を続けることができました。パウロは天幕作りの技術をもっていましたが、支援があれば伝道に専念することができたのです。 「1:6そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 1:7わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。」
 パウロとピリピの兄弟姉妹たちは、からだは離れたところにありましたが、イエス様にあって一つでした。パウロの苦しみはピリピ教会の兄弟姉妹の苦しみであり、パウロの喜びはピリピ教会の喜びであり、パウロの宣教はピリピ教会の兄弟姉妹の宣教だったのです。

むすび
 ピリピ教会の兄弟姉妹ひとりひとりは、パウロが出かけていた先々の町でも直接に伝道したわけではありません。パウロは特別に伝道のために主イエスによって召された器でした。けれども、彼のために祈り、その働きのため捧げることをもって、人を送ることをもって、宣教の同労者となることができたのです。
 信州宣教区では塩尻に開拓伝道を始めました。私たちは日常的に直接に伝道できるわけではありませんが、広田先生たちのために祈ることをもって、またささげることをもって、また人を送ることによって塩尻の伝道に参加することができます。
さらに、同盟教団からは国外宣教師たちが派遣されています。・・・特にモンゴルに派遣されているのは、矢田紫野宣教師で、信州宣教区出身です。私たちはみんながモンゴルに伝道に行ってもあの難しいモンゴル語がわかりませんから、役に立たないでしょう。けれども、神様が矢田先生にお与えになった語学力という賜物があって、私たちは矢田先生のために祈り、ささげることによってモンゴル宣教に参加することができるのです。
 主イエスの福音のためにともに戦ってくれたピリピ教会の兄弟姉妹のことをパウロはほんとうに愛し慕っていました。彼は熱誠をこめていいます。「1:8わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。」

次男が3年生の頃にくれた誕生祝い。