新改訳聖書第三版の1章2節は次のようになっている。
「──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──」
この翻訳でずっと前から違和感を覚えているのは、「御父とともにあって」という表現である。ヨハネ福音書1章1,2節でも、「ことばは神とともにあった」「神とともにおられた」と訳されているのも同じように気になっている。
なぜなら、この二つの箇所で「ともに」と訳されることばはギリシャ語本文ではprosということばでだからである。通常、prosは「に向かって」という意味とされる。であれば、なぜ「御父(神)に向かっておられた」と訳さないのだろうか?おそらく翻訳の伝統に則っているのではないかと思う。
そこで翻訳聖書を調べてみると、ウルガタ(ラテン語聖書)がapudという前置詞を用いている。これはwith, by, nearという意味のことばである。そして、権威あるKJV(欽定訳)がwithを採用し、その後に生まれたもろもろの英訳聖書はことごとくwith the Fatherと訳している。あの直訳を旨とするYoung's Literal Bibleでさえ、with the Fatherと訳しているのである。仏訳聖書ならaupre deとかavec、独訳聖書ではbeiとなっていて同じような状況であるから、結局、ウルガタのapudの影響で、翻訳聖書はprosをwith「ともに」と訳しているように思われる。
息子が、「たぶん使徒信条の影響で、『(御子は)父なる神の右に座したまえり』というイメージが翻訳語に影響して『ともに』となってるのではないか」と言っていた。あるいはそうかもしれない。父の右に座していれば、向かい合うというよりも二人で前を向いているというイメージであるからwithとか「とともに」を用いたのではないかと推測するのである。
だが筆者はむしろ「父に向かって」と訳すべきであると思う。これは父と御子との、聖霊にある「差し向かいの」人格的な交流を意味する表現だと考えるからである。ヨハネ福音書、ヨハネの手紙における三位一体の理解に、このprosの訳語は相当影響する重要語である。新改訳聖書の新版のヨハネ福音書とヨハネの手紙を担当する翻訳者は、ここを「神(御父)に向かって」訳してくださればなあと希望する。