苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

失敗したスタート


    (寒風の中、けなげに咲く路傍の小菊)



 ふりかえれば私自身の結婚生活のスタートは失敗だったなあと告白します。当時、私は牧師になって三年目で、しかも、大学院に週に二回はかよっていて徹夜仕事は週二回か三回。それは多忙な毎日でした。伝道者というのは神様に二十四時間自分の人生をおささげしているという心意気で生きていますから、つい仕事にのめりこみます。早朝から祈り、朝食、書斎で勉強、事務、訪問、来客、昼食、昼食が終わるとまた勉強、訪問・・・夕食、また書斎、家内と顔をあわせるのは食事のときだけなのですが、ほとんど話をするいとまもないくらいでした。うちにテレビはありませんでしたし。
 半年ほどたったある夕方、なぜかその日にかぎって一階から「晩御飯ですよ」という声がかかりません。家は二階の六畳が書斎、一階の六畳と台所二畳が生活スペースでした。どうしたのかなと、階段を降りてみると薄暗くなった部屋の隅に家内がぺたりと座りこんでしくしく泣いていました。「どうしたん?」と聞くと、しばらくして「わたしなんのために結婚したのかわからなくなった。」と蚊のなくような声で言いました。
 「いと高き神の使命に気高く生きる牧師である夫」は自分を振り返ってもくれない、自分はただご飯を作り、洗濯をし、掃除をするためにのみ結婚したのかしらと家内は考えたようです。ひどい夫です。かわいそうなことをしました。一番身近にいる小さな者を愛することのできない者に、どうして人類など愛せるでしょうか。愛していると思ったら、それは幻想にすぎません。主イエスは「全人類を愛せよ」とはおっしゃらないで、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」とおっしゃいました。
 また次のようにもあります。「夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」(第一ペテロの手紙三章七節)
 最後の一行は意味深長です。妻のごきげんばかり取って、神様のみこころをないがしろにするような男はもちろん伝道者失格ですが、また、ぎゃくに、神様は、妻をやさしくいたわり、尊敬しないような牧師の祈りには耳をかしてくださらないというのです。天のお父様は「わたしのだいじな娘をないがしろにするような奴の祈りに聞いてやるものか。」とそっぽを向いてしまわれるのです。祈りを聞いてもらえないのでは、牧師としては致命傷です。
 仕事中毒気味だった私は、少しずつ、ほんとうに少しずつですが、神様によって変えられてきました。がんばるより神様に委ねることを学んだのでしょう。そして、妻とともに生きることのしあわせを神様からの賜物として味わうことができるようになりました。感謝しています。(通信小海より)