苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

天の故郷

ヘブル11:8−16
2010年11月7日 召天者記念礼拝


NM姉 1996年7月27日召天。65歳。小海町(福岡・神戸)
TW姉2004年7月21日召天。83歳。八千穂
SN兄2005年3月6日召天。71歳。南相木・臼田
KY兄2005年11月4日召天。86歳。川上村
SI姉2007年3月10日召天。93歳。南牧村海尻
HI姉2009年6月12日召天。90歳。小海町
以上6名が、小海キリスト教会のメンバーとして天に召された方たちです。それから、ご本人とご遺族の強い希望で、他教会メンバーでいらっしゃいますが、その教会のご承認をいただいて私が司式させていただいた方として、2名いらっしゃいます。
IS姉2008年6月28日召天。52歳。南牧村野辺山
MI兄2010年9月17日召天。90歳。川上村

 いずれの方たちも、その人生においてイエス・キリストとの出会いを経験し、神の前に自分の罪を認めて、イエス様を救い主と信じ受け入れて、地上の旅を終えて、イエス様のいらっしゃる天の御国へと召された方たちです。今朝、召天者をおぼえながら、私どもも聖書からその日への備えをしたいと思います。

1. 神の召し

(ヘブル11:8)
 紀元前2000年、アブラハムが生まれたのは、メソポタミアのウルという商業都市でした。その後、一族の長であった父テラに連れられてチグリス、ユーフラテスを遡ってその源流地域カランに移り住み、父はそこで地上の生涯を終えます。そのとき、アブラハムは神様の召しのことばを受けました。創世記12章1-3節。

 時に、アブラハム75歳、妻サラは65歳。いかに当時の人々が長生きであったとは行っても、75歳にして危険に満ちた新たな旅立ちをするのは尋常なことではありませんでした。周囲の反対があったでしょう。特に、アブラハムという人は族長と呼ばれる立場の人で、おそらく女子どもたちを入れれば、千人近くの人々が彼について回らねばならないような立場でした。そう簡単な旅立ちではなかったのです。
 けれども、彼は旅立ちました。なぜか。それが神からの召しであったからです。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」ここを見て分かることは、アブラハムの人生の中心はそれまで「生まれ故郷、父の家」であったということです。一族の維持と繁栄ために、生きるという生き方です。「家」中心の生き方です。それが当時としては、世間の常識であり、立派な生き方とされていました。
 人には三通りの生き方があります。一つは家中心の生き方です。現代になって、それに反発するように、もう一つの自分中心の生き方ということがもてはやされています。けれども、アブラハムの旅立ちはどちらでもありません。アブラハムの旅立ちは、神中心の生き方への旅立ちでした。この旅立ちにおいて神がアブラハムに要求されたのは、神の召しに従う、神中心の生き方への変革でした。

 神様は、私たちの人生に対して主権を主張なさるのです。神様は私たちの創造主であり、私たちにいのちそのものを賜ったお方であるからです。しかも、神様は私たちをロボットを動かすように強制的に動かそうとはなさらない。神様は私たちに召しを与え、私たちが信仰を持って応えることを期待していらっしゃるのです。それは、神様が私たちをロボットや動物とはちがって、神ご自身に似た人格ある存在として造られたからです。神様は人格的お方であり、私たちに人格的応答を期待しておられるのです。

2.約束

 神の召しのことばは、「わたしが示す地へ行きなさい」でした。それは、ヘブル書のことばでいえば、「相続財産として受け取るべき地へ行け」ということばです。そうです。命令には約束がともなっていたのです。
 アブラハムは、この約束のことばを信じてカナンの地へと旅立ちました。ところが、カナンの地に到着してみると、意外なことに、そこにはすでにヒビ人、エブス人、カナン人といった人々が住んでいたのです。しかも、彼らはアブラハムが出てきたウルやカランよりも悪質な偶像礼拝と不道徳な生活をしていたようです。神様のお約束は、どうなったのでしょうか?地上的な意味でアブラハムの子孫がこの地を得るのは、数百年後のことヨシュアの時代のことです。では、アブラハムはなにを考えていたのでしょうか?
 ヘブル書の記者は、このアブラハムの相続財産をめぐる謎を解き明かしています。(11:9,10)
 アブラハムの約束の地における生涯をじっくりと読み通してみると、彼が地上にあって獲得したカナンにおける地については、創世記23章にようやく出てきます。妻のサラが死んだときのことです。アブラハムが地上の生涯において、カナンにおいて手に入れた土地とは、マクペラの畑地だけでした。妻サラと彼と後の子孫たちがが死んだとき、葬る為の墓を作るためでした。アブラハムが地上における約束の地において得たのは、わずかな墓所のみだったのです。アブラハムは、それ以外には、カナンにおいてまったく土地を得ませんでしたから、一生涯天幕で生活をしたのです。
 領土を得るようなチャンスがなかったわけではありません。メソポタミア連合軍に、アブラハムが夜襲をかけて撃破したとき、彼はカナンの都市国家の王たちの仲間入りを果たす機会もあったのです。けれども、アブラハムはあえてそれを望みませんでした。
 なぜか。ヘブル人への手紙の著者は、このアブラハムの生き方は、信仰にかんするある大切な真理を指差していたのだと私たちに教えているのです。

 アブラハムはなぜあえて地上に約束の地を得ることなく、ただ墓地を得たことで満足し、自らは生涯天幕生活をするという生活を選んだのでしょうか?それは、神がアブラハムにお与えになろうとする真の相続地とは、天の都であるということを彼が信仰によって認識していたからです。確かにカナンの地に主はお導きになりましたが、その地上におけるカナンの地とは、天においてアブラハムが相続する天の御国を指差すシンボル、象徴にすぎなかったのです。
 アブラハムが領土的関心はまるでないのに、墓所にこだわり、創世記記者も丁寧にこの墓所をいかにして獲得したかという出来事に23章まるまる割いているのにも意味があります。墓所は、信仰者にとって天国への門という意味合いが含まれるからでしょう。ここにだれそれが生き、そして、後の日にこの地からよみがえるのだという信仰のゆえです。信仰者にとって、墓は地獄の入り口とか、暗闇の世界の入り口ではなく、復活の希望の場なのです。キリスト者の墓は、神が設計された都への入り口です。
 TWさんの墓は八千穂村にあります。その墓誌には、頭に十字架を刻んで「お名前姉2004年7月21日召天。享年83歳。」と刻まれています。まわりはみな「・・・・没」と書いてありますけれど。由井嘉久さんの場合は、やはり十字架を頭に刻んで、「恩寵愛祷大士お名前2005年11月4日召天。享年86歳。」と刻んであります。あの墓誌を見る人々は、見るたびに「没」という字が並ぶなかに「召天」ということばを見るのです。『彼は死にましたが信仰によって今も語っています』というとおりです。
 もし小海キリスト教会が教会墓地あるいは納骨施設を持つという計画を持つとすれば、――現在はまだその計画は具体的にはありませんが――、それは復活の希望を十分に表現したものであるようにしたいものです。
 
3.地上では旅人、寄留者

 ヘブル書記者は、11節、12節でアブラハムの妻サラの信仰について述べた後、次のように述べます。
 「 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。」
 「これらの人々」というのはアブラハムとサラだけでなく、その前に記されたアベル、エノク、ノアをも指しています。アベルは信仰によって神にささげものをささげ、カインに殺されて最初の殉教者となりました。エノクは、常に神とともに歩む人生をまっとうしました。ノアは、周囲の人々がことごとく神に背き悪をなすことを楽しみにするような風潮のなかにあっても、神様とともに歩んで、周囲の人々の嘲りにもかかわらず、箱舟を建造したのでした。どの人物も、この世の基準からいえば特別の成功者というわけではありません。この地上に栄耀栄華を見たわけではありません。
 それは、旅人であるからです。旅人にとって一番たいせつなことは、目的地です。旅上手な人というのは、重くて大きな荷物は持たないものです。アブラハムは、地上では旅人であり、寄留者でしたから、地上では旅のじゃまになる大荷物を持とうとはしなかったのです。アブラハムをはじめとする聖徒たちが、ふるさとという言葉を口にすることがあっても、それは地上のふるさとを意味しているわけではありません。カナンの地からカランあるいはウルの地に旅することは、当時としてはそれほど特別なことではありません。メソポタミアとエジプトをいつもキャラバン隊が通っていたわけですから、ふるさとが懐かしくて帰ろうと思ったならかえることもできました。「もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。」
 しかし、アブラハムは決して地上のふるさとに帰ろうとはしませんでした。それは、この約束の地カナンが天のふるさとの象徴であったからです。彼が望んでいたふるさとは地上のふるさとではなく、天の故郷であったからです。(ヘブル 11:16)
 そして、ここに力強く念を押すようにヘブル書は語っています。「それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」聖なる召しに対して、信仰をもって人生をかけて応答したアブラハムたちに対して、神様はしっかりと約束を守られ、用意すべき天の都を用意していてくださったのです。アブラハムの神は、真実なお方です。私たちの神イエス・キリストは真実なお方であって約束を決してたがえることをなさいません。

結び
 私たちも地上では旅人であり、寄留者です。このアダム以来滅びに定められている地上には永久に落ち着くことのできるふるさとを持つものではありません。私たちの最終的な望みは、主が用意してくださる神の御国、新しい天と新しい地です。その御国が到来するとき、私たちの霊もたましいも、そしてこの罪の性質がしみついたからだも、新しく更新されて、正義が住む御国にふさわしいものとしていただくことができます。
 私たちの国籍は天にあり、私たちのふるさとは天の御国にあります。地上では旅人であり、寄留者であることをわきまえて、この世のものを用いながらも、この世のものに執着したり、この世のものにとらわれることなく、御国への旅人らしい生き方をしてまいりましょう。
 ところでふるさとの愛する主の御許にもっていくことのできるお土産とはなんでしょうか。それは地上に積み蓄えたものではありません。主のもとにもっていくことのできるお土産とは、神を愛し、隣人を愛するがゆえにこの地上で失ったものだけなのです。