苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

省略してほしくなかった代名詞・・・マタイ28:5、ルカ12:27,28

 <日本語では英語とちがって主語である代名詞が省略される場合が多いが、それはギリシャ語でも同じである。ただギリシャ語の場合、代名詞を省略しても動詞の形が主語の人称と数とによって異なっているので、日本語のように主語があいまいになって取り違える心配はない。だからギリシャ語であえて代名詞の主語を記す場合というのは、聖書記者が格別にその主語を強調したい場合にかぎられている。>これは神学校のギリシャ語の初等文法で教わったことである。けれども、翻訳においては、自然な日本語に置き換えるために、主語の代名詞を省略してしまうことがしばしばあるし、それはそれでよいと思う。
 だが、新改訳聖書を読んでいると、「この文脈のばあい、代名詞は省略しないで、ぜひ訳出して欲しかったなあ」と思う個所がときどき見受けられる。たとえばマタイ福音書28章5節。主イエス復活の朝、御使いの出現に番兵たちは卒倒してしまった。ところが、そこにやってきたのが主イエスを信じる女たちだった。御使いは言った。「恐れてはいけません。」(新改訳)。しかし、ギリシャ語本文には「あなたがたは(ヒューメイス)」が「恐れてはいけません」ということばの直後にある。福音書記者の意図は、あきらかにイエスに敵対する番兵たちと対比して、「(イエスに味方する)あなたがたは恐れてはいけません」ということであろう。だから訳出して欲しかった。
 口語訳、塚本訳、新共同訳は「あなたがたは」を新改訳と同じように省略し、文語訳、前田訳はそれぞれ「なんぢら」「あなた方は」と訳出している。

文語訳 「御使ひこたへて女たちに言ふ『なんぢら懼るな、我なんぢらが十字架につけられ給ひしイエスを尋ぬるを知る。」
前田訳 「天使は女たちにいった、「あなた方はおそれるな。わたしは知っている、十字架につけられたイエスをあなた方が探していることを。」
 というわけで、新改訳に「あなたがたは」を入れて、読み比べてみよう。新改訳は次のようになっている。
「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。』」
 これに省略した「あなたがたは」を入れてみると次のようになる。
「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。『あなたがたは恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。』」
 ついでに、もうすこしエレガントに、そして御使いのことばに少々権威を持たせて私訳してみると・・・
「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。『あなたがたは恐れることはない。十字架につけられたイエスをさがしているのはわかっている。』」

 同様の例としては、異邦人と神の子どもが対照されているルカ12章29節の場合。「<あなたがたは>何をたべたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。」あれ、文語訳、口語訳、塚本訳、前田訳、新共同訳はちゃんと「なんぢら」とか「あなたがたも」訳出しているなあ。


 「私の」とか「あなたの」とかいう代名詞の属格も日本語ではうるさい感じがするので、翻訳上省略してしまってよい場合も多いが、文脈上あきらかに強調されているので省略してほしくなかった個所がある。たとえば、ルカ12章の欲深な金持ちの譬えのなかの金持ちのセリフである。
 「そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」(17,18節)というところである。ギリシャ語本文にある「私の」を補うと、次のようになる。「そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。私の作物をたくわえておく場所がない。』として言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、私の穀物や私の財産はみなそこにしまっておこう。」「私の」をうるさいほど訳出することにより欲深な金持ちの愚かさがよく表現されている。

 これ以上いちいち挙げることはしないけれど、「日本語訳では代名詞は省略する」という原則を機械的に適用するような翻訳は避けて、文脈をわきまえて代名詞を訳出するかしないかをしっかり吟味するということを、委員会の翻訳方針としてほしいと思う。