苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

アブラハムの子孫、ダビデの子孫

                 マタイ1:1

                 待降節第三主日2009年12月13日 
1. 系図

(1)歴史性、事実性
 はじめて聖書を読もうという人は、たいていありがたい教訓や名言を探してみようとするでしょう。けれども、その人が、新約聖書をはじめて手にとってページを開いて、最初に出っくわすのがこの系図。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」とあります。あとはズラズラ聞いたこともない名前が並んでいる。変てこな本だなあと思うでしょう。
 この試練を乗り越えて、先に読み進めば、そこに書かれているのは教訓・名言というよりも、大半はイエス・キリストという方が、どこで何をなさったのかということが書かれているわけです。聖書というのは、旧約聖書もそうですが、大半は「こんなことがありました。だれかがこんなことをしました。」という歴史的な記述から成っている本です。神様が歴史の中に生きている人々に、また民に対してこういうことをなさったということです。詩篇箴言など例外はありますが、聖書は基本的には哲学書とか名言集ではなくて、歴史書なのです。聖書には歴史を支配なさる神様が、歴史をどう導かれたのか、また、神であるお方が、歴史の中に入ってこられて何をなさったかが記されています。系図は、ここに名前の記されている人々が歴史上に実際に生きていた人たちであるということを意味しています。
 イエス・キリスト系図といわれても、大半の日本人にはピンと来ないでしょう。けれども、韓国の人にはピンと来るそうです。韓国の人の伝記を読むと、その最初にはたいてい、この朴さんの先祖はなになにで、何何王の系譜から出ているとか、彼は何代目であるなどということが詳しく書かれています。韓国の人は系図というのを代々とてもたいせつにしているのです。イスラエルではなぜ系図が大事にされたのか?それは、旧約聖書における大昔の約束で、メシヤ(キリスト)は、紀元前約2000年のアブラハムの子孫、ヤコブの息子ユダの家系から出る紀元前約1000年のダビデ王の家系に生まれるということが決まっていたからです。ですから、「イエスこそ待望されたメシヤなのですよ」とユダヤ人説明すると、まず、彼らは必ず「じゃあイエス系図はどうなっているんですか?イエスダビデの家系から出ている者なのですか?」と確かめようとするからです。それに対して、確かに、イエスさまは旧約聖書の預言どおりアブラハムの子孫、ダビデの家系に生まれたメシヤですよと語るのが、この系図なのです。

(2)系図の題名「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」
 ところで、イエス様の家系にはたくさんの先祖がいるにもかかわらず、特に、アブラハムダビデが取り上げられているのはなぜでしょうか。アブラハムよりもヤコブの方が、イスラエル十二部族が彼から出たということを取り上げれば重要でしょうし、ダビデ王の時代でなくソロモン王の時イスラエルの王国は栄華を極めたのです。それなのに、あえてアブラハムダビデの名だけがとりあげられて、イエス・キリストの系図の表題とされているのです。なぜでしょうか。
 それは、この福音書が政治的繁栄とか経済的繁栄にはさして関心がなく、神の御前における信仰について関心があるからです。筆者は神様の契約あるいは約束とそれに応答する信仰について語りはじめようとしているのです。今、契約ということばを使いましたが、それは神様が人間に対してお与えになった契約です。旧約はイエス・キリストが地上に人として来られる以前の時代のことで、新約はイエス・キリストが地上に来られて後のことです。旧約聖書には、創造の契約、ノアの契約、アブラハム契約、シナイ契約、そしてダビデ契約が記されていて、それがキリスト・イエスにあって成就するのですが、その中で特にマタイ福音書は、アブラハム契約とダビデ契約を取り上げています。

2. アブラハム契約
 
 アブラハムは、ある人の計算によれば紀元前2100年ころに生まれた人でした。生まれはメソポタミアペルシャ湾にちかい都市国家ウル。ところが、彼は75歳のある日、神様から召しを受けました。
「あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」創世記12章1−3節
 当時、天地万物の創造主である神様に対する信仰は、世の人々から忘れられてしまい、ほとんどの人々は太陽を神と拝んだり、月を神と拝んだり、動物を神々と拝んだりするという偶像崇拝の暗闇のなかに暮らしていました。けれども、アブラハムは天地万物の創造主からまことの神への信仰の復興のために選ばれて、そして、神様がお命じになる地へと旅立てと命じられました。アブラハムはすでに75歳でしたが、神様のご命令にしたがって故郷を捨てて旅立ったのです。
 それから時を経て、神様が99歳になったアブラハムにくださった契約の話に移ります。創世記17章です。

「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」

 神様はアブラハムに信仰の服従を求められ、アブラハムが神を信じるならば、彼は多くの国民の父と呼ばれることになるとおっしゃり、「わたしはあなたの神に、あなたの子孫の神となる。」といわれたのです。
 アブラハムの生涯には、さまざまな出来事があり、ときには不信仰に陥って失敗もしましたが、彼はそれでも神様の約束を信じぬいて生涯をまっとうしました。その結果、たしかに子どもがいなかったアブラハムになんと100歳で奇跡の子どもが生まれ、さらに子孫がふえてイスラエル民族が出現しました。そして、イスラエル民族のなかからキリストが生まれて、その後キリストへの信仰は世界中にひろがって、世界中のあらゆる民族国語の人々がアブラハムを「信仰の父」と呼んでいます。確かに、「あなたを多くの国民の父とする」とおっしゃった神様の約束は成就したのです。
 そして、アブラハム契約の中心である、「わたしは彼らの神となる」という約束は、イエス・キリストにあって、まさに成就しています。私たちの多くは異邦人で万物の創造主であるまことの神を知らずに石や木で作った神々や仏像をおがんでいました。偶像崇拝と迷信の闇の中に迷っていたのです。けれども、信仰の父アブラハムの家系に生まれたイエス・キリスト様と出会って、ほんとうの神様の民としていただきました。「わたしは彼らの神となる」というアブラハム契約は成就したのです。これは実に、ありがたい恵みです。

3 ダビデ契約

 次に、イエス系図のもうひとりの名ダビデを取り上げましょう。ダビデという人は、紀元前1000年頃の人です。ダビデイスラエル版日吉丸で、一介の羊飼いから身を起こして王にまでなった人です。彼は羊飼いであった若い日から、先祖アブラハムに与えられた万物の創造主に対する信仰を与えられた勇敢で、紅顔の美少年で、竪琴の名手で詩人でもありました。とうぜん女性にもてたのですが、このことが後の罠となります。
 ダビデの前半生にも、いろいろな試練に満ちた出来事がありました。巨人ゴリヤテを倒して王の部下として取り立てられたまではよかったのですが、あまりにも彼の人気が高いので当時の王サウルから嫉みを受けて、いのち付け狙われ、彼は王のもとから逃げ出し部下たちと野山に伏したり、時には隣国に亡命したりして難を逃れてまわるのです。そんな中でもダビデは、主なる神への信仰をまもり、かえってそうした試練を通して、ダビデの信仰は精錬されて行きました。
 やがて、神様の摂理によってダビデのいのちを奪おうとつけねらっていたサウル王は異国との戦場に倒れ、不思議な導きでダビデが王となりました。ダビデは武人で、その後も国境線でさまざまな戦いすべてに勝利を収めて周辺諸国を平定して、ついに都エルサレムに神の契約の箱を安置することができました。
 そして、彼はレバノン杉と呼ばれる最高の木造のデラックスな宮殿、日本風にいえば総ヒノキの立派な屋敷に住んで、ようやく一安心することができたのでした。そのとき、ダビデは神様に申し訳ないと感じたのです。自分がこんなに立派な御殿に住んで、神様を礼拝する施設が天幕式の簡易建物であることを申し訳なく感じたのでした。当然の感想でしょう。そして、彼は神様のために立派な神殿を造りたいと志したのです。このときです。神様は、ダビデに契約をお与えになりました(Ⅱサムエル7章)。

「『行って、わたしのしもべダビデに言え。
 【主】はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。
  今、わたしのしもべダビデにこう言え。
 万軍の【主】はこう仰せられる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。わたしが、わたしの民イスラエルのために一つの場所を定め、民を住みつかせ、民がその所に住むなら、もはや民は恐れおののくことはない。不正な者たちも、初めのころのように重ねて民を苦しめることはない。
それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
 契約のポイントは、12,13節です。つまりダビデの子孫から出る王が神の家と王国を建て、その王座は永遠に立つということ。ダビデの次の王ソロモンは知恵のある実力者で、「ソロモンの栄華」をイスラエルにもたらし、立派な神殿も建設しました。ソロモンにおいてダビデ契約は成就したかに見えたのです。ところが、残念なことにソロモンは政略結婚した嫁さんたちが外国から持ち込んだ偶像崇拝によってイスラエルの霊的純潔を失わせてしまい、結局、ソロモン死後、王国は南北に分裂することになります。ソロモン王によっては、ダビデの王座は永遠に立ち得なかったのです。
 罪ある人間が王となっても、神様がダビデに与えた契約は成就できないのだということが判明したのです。ダビデに対する契約を成就させるのは、罪のない神の御子以外にはありえないのです。
 というわけで、神様はダビデの家系のなかに、処女マリヤの胎をかりてご自身人となって生まれて来られたのです。ダビデの子孫として、ダビデに対して結ばれた契約を成就させるために。イエス・キリストはどのようにダビデ契約を成就されたでしょうか。
 イエス様は、第一回目の宮清めのとき、ユダヤ人と論争になりました。このとき、イエス様はおっしゃいました。
「『この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。』 そこで、ユダヤ人たちは言った。『この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。』 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」(ヨハネ2:19−21)
 不思議なことばですが、イエス様のおからだが神殿なのです。また、パウロはエペソ書で次のように言っています。
「あなたがたは使徒預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:20−22)
 神の住まいとは、木や石やコンクリートでできた建物のことではなく、信徒の群れとしての教会のことです。この信徒の群れとしての教会が、キリストのからだの神殿なのです。イエス様がお建てになった新約の教会は、初めは世界の片隅のイスラエルのそのまた小さな弟子団にすぎませんでした。いつ消えてなくなってもおかしくないような集いにすぎなかったのです。けれども、教会の王座にはダビデのすえとして来られたイエス・キリストがとこしえにおられるので、永遠の御国なのであり、私たちはキリストの王国の民なのです。このようにして、キリストは紀元前1000年にダビデに対して与えた約束を成就なさったのです。やがてキリストが再臨されるとき、このダビデ契約は完全に成就することになります。

むすび
 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。短いことばですが、ここにはアブラハム以来2000年間の神の民のメシヤ待望の歴史がこめられています。そして、神が、ご自身のめぐみとまことにかけて、確かに派遣してくださったメシヤこそ、イエス・キリストであることのあかしがここにあるのです。イエス様は、アブラハムに約束されたとおり、アブラハムを信じる信仰の子孫である私たちの神となってくださいました。そして、ダビデに約束されたとおり、神の家である教会の王として世の終わりまでともにいてくださるのです。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」