苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

無冠の帝王

 「無冠の帝王」。小畑進先生を評して、神学生たちはひそかにそう呼んだ。先生は欧米への留学経験やThDやPhDといった学位を取得なさらない、ひとりの牧師であられたけれども、その学識の広さ、底知れぬ深さと、霊的な迫力には、他の先生がたの追随を許さないものがあったからである。「他の先生がた」には失礼な話だが、たぶん多くの神学生たちはそう思っていた。
 私の神学生時代は聖書論論争がにぎやかで、いろいろな先生たちの講義を聞きいたり書籍を読んだりしたものだが、筆者にとって聖書信仰の学的土台となったのは、小畑先生のカルヴァンとウォーフィールドを根幹とする聖書の霊感論、正典論の講義であった。
 東洋思想の講義では論語を教わった。高弟顔回を失ったとき、孔子が「天われを喪(ほろぼ)せり!」と嘆いた場面は、先生が敬虔な画学生を失った悲痛な出来事と重ねあわされて、今も忘れられない。また後年、私が琵琶湖のほとり安曇川陽明学中江藤樹の史跡を訪ねたのは、先生の講義における藤樹の描写があまりにも鮮やかに脳裏に残っていたからである。
 倫理学は、古代ギリシャから始めて近現代にいたる、「報いがあるから善を行なう」という目的的倫理学と、「報いは眼中になく正しいことゆえ行なう」カントの無目的的倫理学の思想史を緻密に論じられた後、聖書が目的的倫理の実効性と無目的的倫理の厳粛さを兼ね備えた倫理を提出していることを論じられ、目からウロコの思いがした。筆者はそれまでキリスト教倫理を、カントふうの無目的的倫理であるとなぜか思い込んでいたからである。
 そして、すべての神学諸学科の冠である説教学は、「説教は総合芸術である」とのテーゼのもとに展開された名説教家をもって鳴った小畑先生独特のものであった。ところが意外なことに、私にとって、この説教学講義だけは、他の講義に比して、伝わってこないという印象を受けた講義であった。小畑先生がもどかしげな思いをしていらっしゃることを感じたのである。いかにして神のことばを聞き、いかにして説教として備えるかということは、それほど伝授困難なこと、人間のわざを超えたことなのであろう。
 私の記憶力が特にすぐれているわけではないのだが、ただ小畑先生の講義内容だけはこのように鮮やかに脳裏に焼きついているのである。先生の講義があれほど魅力に満ちていた秘密は何なのか。それは、該博な知識と論理構成の緻密さ、そして先生が漢籍古典や歌学にまで通じたことばの名手であられたゆえだけではない。先生の神学には実存を賭けた求道者としての生き方が伴っていたからである。もしこの探求によって、相手が真理であり、こちらが誤りであると判明したならば、自分の立場を捨てて対象に従うのだという危機的覚悟をもって、東西の思想と切り結んでこられたことが伝わったからである。先生にとって学問は机上の遊戯ではなく、斬るか斬られるかの真剣勝負であった。その迫力が、講義を通じて聴く者に伝わってこないわけがない。
 小畑先生はこのように東洋・西洋・日本思想の懐にまで入り込んで戦うという最も危険なところに身を置いて神学をなさり、そのダイナミズムが魅力であったのだが、いかなる論敵にも挫けることのない強靭な背骨を持っておられた。それは正統カルビン主義の教義学である。若い日に、先生がチャールズ・ホッジ、B.B.ウォーフィールドの重厚な教義学書を徹底的に読まれたことが、時折口にされることばからうかがえた。ことに先生はウォーフィールドを尊敬しておられた。一度だけ「もしベンジャミン・ブリッキンレッジ・ウォーフィールドが生きていたならば、私もきっと留学したでしょう。」とおっしゃったことを記憶している。先生の若い日、米英には先生をして師事したいと思わしめるほどの神学者がいなかったのである。それにしても、聖書論は別にして、先生から組織神学を本格的に学ぶ機会を結局得られなかったのは、いかにも残念である。十年ごとに風向きが変わるような流行の神学を追い回すより、ある人々からは死せる正統主義と毛嫌いされるほど確かな正統主義の神学体系を身に着けておくことが、真に有益なのだということを先生の学問的営みを見て思う。先生は、それゆえにこそ、古今東西の思想との対決ができ、多くの戦果を上げられたのであろう。