苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近江聖人

 ずいぶん前に、たしか水道橋の友愛書房で見つけた清水安三中江藤樹』という本を読み返しています。先日の家庭集会でふとしたことから、江戸時代の陽明学者藤樹のことを思い出したからです。
 東京基督神学校の学生だったころ、小畑進先生が日本思想の講義で藤樹の紹介をしてくださり、藤樹切支丹説についても触れて、上の本も紹介してくださいました。また、小畑先生は藤樹の生家がある琵琶湖のほとり安曇川町(旧小川村)をたずねた折の経験を例のごとくドラマチックに聞かせてくださいました。先生が安曇川(あどがわ)の駅を降り立ち、通りかかった女子高校生に藤樹書院はどこかとたずねました。女子高生は、「藤樹先生のご書院でしたら、あの角を右へ」と近くまで案内してくれました。先生がその角を曲がるとき振り返ると、彼女はそれを確認して微笑んで頭を下げました。先生はその姿のゆかしさに感銘を受けたそうです。
 藤樹が世を去って後百年ほどもして、この地を訪れた佐藤一斎は、その地の民がみな礼譲をわきまえていることで、この地が藤樹先生の住まわれる地であるとわかったという詩があります。「今尚土民敦礼譲、入疆不問識君郷(今なお土民礼譲にあつく 疆に入りて問はずとも 君が郷と識る )」中江藤樹は思想家というよりも教育者であって、その人格的感化は村人すべてに及んだというところに藤樹の真面目(しんめんぼく)があるということでした。はるか四百年後になっても・・・と、小畑先生は近江聖人の感化力に恐れ入ったとのことでした。まあ、ちょっと小畑先生らしい脚色があるような気がしなくもないのですが。

 十八年前、練馬からこの信州小海に移り住んで借家をして伝道を始めました。母もいっしょでした。神戸の母はその半年前に娘の誕生が近いということで、練馬にやってきていっしょに暮らすようになっていました。こちらに来る三ヶ月前に母は入院しなければならない状況になったので、神戸に帰すわけにもゆかず、そのまま信州に連れてきたのです。信州に移り住んでからも、毎週二回は母を病院にくるまで連れて行かねばなりませんでしたが、そんな車内の会話のなかで母が思いがけずこんなことを言いました。「おかあさんが子どものころ、最初に父さん(私の祖父)に買ってもらった本は『近江聖人』という伝記だったんよ。」と。
 「博多のおばあちゃん」と呼んでいた私の祖母は、若い日に単身で大陸に渡って勉強をし、三十を前に福岡の大きな病院で看護婦長を務めていたというやり手で気性の激しい女でしたが、彼女を見初めたのが、大学病院の若い眼科医だった祖父でした。祖父は結婚して後、結核になって伏せることが多く、祖母は自分は夫を看病するために結婚をしたようなものだと言っていたものでした。でも、そんな祖母は、祖父について「お父さんはホトケさんみたいな人だ」と言って、こよなく尊敬していたのでした。戦時中、祖父の家族は玄界灘にうかぶ壱岐の島の病院に赴任していたのですが、現金収入の乏しい島の人々は治療費が払えず、かわりに大根や味噌を持ってこられるというふうなこと多かったそうです。が、祖父はそういう島の人々のことを喜んで診療していたといいます。そうした祖父の生き方の背景には、もしかしたら中江藤樹の書物があったのかもしれないなあと今になって思います。
 藤樹は、伊予藩の殿様に仕えた祖父の継承者として伊予藩に仕える身となったのですが、故郷の近江の高島の小川村にひとりで暮らす母への孝養のために、あえて伊予を脱藩する罪を犯した人です。近江聖人は脱藩浪人だったのです。そうして、この小川村の人々のために会所を開いて彼らにわかりやすく人が生きるということを伝えようとしたのでした。また藤樹には相当医師の知識もあったようで、村人たちはそういう面でもずいぶん助けられたようです。

 娘が小学校一年生ころ、十年ちょっと前、神戸の兄の家をたずねる途上、一度だけ、家族で琵琶湖のほとりの安曇川町に藤樹書院を訪ねたことがあります。水路には錦鯉が泳ぎ、あちらこちらの家の軒下には扇子の骨が置かれている静かな町でした。日本の扇子の大半はここで作られているとのことでした。もしかして、今でも安曇川の里には、小畑先生が出会ったようなゆかしい女子高生がいるかなあと、妻といっしょに期待していたのです。が、すれちがった女子高生たちは屈託無くきゃあきゃあ話している現代の普通の女子高生でした。
 藤樹書院は駅から徒歩十分もせぬところにある小さな建物でした。その庭にかつて藤樹が生まれた家と、のちに門人を教えた会所があったそうですが、門人がだんだんとふえたので慶安元年二月、大きな書院を完成しました。ですが、藤樹はほとんどこの書院を用いることなく、同年八月二十五日に逝去しています。この書院は明治13年焼失しましたが、遺物は無事だったので、翌翌年、小さな書院として建て直されたとのことでした。
 その遺物に刻まれたいくつもの切支丹文字が、藤樹切支丹説の根拠のひとつです。ひとつはギリシャ文字λとχのセットで、ロゴスとクリストスの頭文字。ひとつは「出牛」ラテン語deus(神)と「Χ、I、ギリシャ文字th」で、クリストス・イエスース・テオス(神なるキリスト・イエス)ということになります。
 彼の宗教思想を見ると神の名を大乙真と呼ぶ神一神教であり、また、生き方としては当時としてはめずらしく一夫一婦を大事にしたことも切支丹であったしるしです。(追記:ただし、この件については、当時の子を残さねば御家とりつぶしという時代の事情にかんがみて、子なき場合は妾をおくのもやむなしということも言っています。)彼がどのようにして切支丹信仰に接し、そして目覚めたのかについては,これから清水氏の説明を読もうとしています。
 藤樹書院の近くには藤樹神社なるものが大正時代に建てられていました。かりにもし藤樹切支丹説が正しいとすれば、自分が神として祀られていることを喜んでいるでしょうか?いや、今頃、神の御前にひどく恥じ入っていることでしょう。残念なことです。