聖書解釈にあたっては、聖書に書かれた文字を正確に読むことを目指すのであるが、では、字義を捕らえたらそれで十分かというとそうではない。そのことばを語られる、主ご自身と交流することこそが私にとって聖書解釈の目標である。聖書もまた神と交わるための手段である。手段ではあるが、神ご自身が語られたおことばであるから、それをきわめて大切に扱う。きわめて大切に扱うが、やはり、目的は神と交わることにあることを忘れてはいけない。
愛の手紙をもらったなら、その手紙を介して私たちは書き手を知ろうとする。書き手を知るために手紙を読む。書き手についてはまったく関心がなく、書かれた文字にのみ関心を寄せて手紙を読むとしたら、それは書き手の意思に反している。同様のことが聖書に関していうことができよう。