苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

エマオ途上

ルカ24:13-35
2009年7月26日
1.復活がわからなかった弟子たち

エス様が復活なさった週の初めの日、ふたりの弟子がエルサレムからエマオという村に向かっていました。徒歩で二時間半ほどの距離です。二人の弟子の一人はクレオパで、十二弟子にはふくまれない名です。
 二人の話題はイエス様の十字架の出来事と葬り、そして三日目の今朝、イエス様の墓が空っぽになっており、女たちのことばによれば天使が現れてイエス様はよみがえられたと言ったということでした。ふたりの弟子は特にこの空っぽの墓という事実をどう理解したらよいのか、話し合い、論じ合っていたのです。
「それにしても何でイエス様は、むざむざと敵に捕まってしまわれたんだろう。」
「そうだなあ。裁判のときだって、ペテロに聞けば、イエス様はいつものように舌鋒鋭く祭司長たちをやっつけてしまうかと思ったら、なんにもおっしゃらないまま有罪にされてしまったっていうじゃないか。」
「そして、今朝のことだ。女たちがいうように墓がからっぽなのは事実だとしても、いったいイエス様の亡骸はどこに行ってしまったんだ。」
「だれかが盗んだにきまってるだろう。死体が自分で歩いてどこかに行くわけはないんだから。」
「じゃあ、だれが盗んだっていうんだい?祭司やパリサイ派がイエス様のからだを盗んで隠したって、なにもいいことない。やつらにすればイエスの亡骸があることこそ大事だろう。もし亡骸がないとなれば、イエス様が復活したという主張をする者たちが出てくるのを祭司たちは一番恐れていたじゃないか。だから兵隊に墓番をさせたんだろ。」
「それはそうだなあ。じゃあ、ローマ総督ピラトか?」
「そんなことはありえない。ピラトは保身が第一で、事なかれ主義じゃないか。群衆が騒ぎ出すのを一番恐れているのはやつだよ。イエスの体がなくなったと大騒ぎになるのを、ピラトは祭司長たち以上に恐れているよ。」
「じゃあ、イエス様の亡骸はどこに行ってしまったんだよ。」
「イエス様が生前おっしゃっていたように、文字どおり復活されたのかなあ?しかしなあ・・・」
とまあ、こんなふうに、弟子たちはイエス様のなくなった体について、どんなに熱心に「話し合い、論じ合って」もわかりませんでした。イエスの復活の出来事は彼らの理解を超えた出来事でした。イエス様がよみがえったということが、文学的比喩であるとか、弟子たちの心のなかの思い出であるとかいうふうに合理化しようとしても、無駄なことです。実際に、墓の中は空っぽになってしまったのです。イエスの復活とは、ある聖書学者たちがいうように「イエス様は死んでしまいましたが、弟子たちの心の中にイエス様の思い出がよみがえりました」などと陳腐な空想で合理化してしまえる種類のことではないのです。

2.同伴してくださるイエス

 しかし、歩きながらイエス様のことを話しているところには、当の復活したイエス様が同伴者となってくださいました。キリスト者二人がともに歩くとき、神様のことをみことばのことを語り合っているならば、そこにいつのまにか主イエスが同伴者となってくださるのです。けれども、「彼らの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(16節)というのです。不思議です。でも、とにかくすぐにはわからなくても、イエス様ご自身が、ご自分のことをじょじょに明らかにしてくださいます。
 復活のイエス様は、イエスご自身が目を開いてくださらなければ、わかりません。人間の理屈でイエス様のことを究明し尽くすことなど出来ない相談です。すぐには悟ることの出来ない、理解の遅い弟子たちに歩調をあわせてともに歩いてくださるのはイエス様の愛です。こうしてイエス様は忍耐して聞いてくださるのですね。気短に結論だけ聞いて、「この不信仰な者」と断じることをなさらない。
 もうひとつ、ここから思うのは、イエス様のユーモアです。こんなふうに知らばっくれているイエス様は、なんだかいたずらっこみたいです。楽しいですねえ。嘘というのでなく、これはイエス様のユーモアに満ちたいたずらというものでしょう。イエス様はときどきこういう風な振る舞いをなさいます。あなたも経験したことがあるでしょう。
 
3.弟子たちのメシヤ観の欠け

24:19-21
エスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが・・・」

 ここには弟子たちの不十分なメシヤ観がことばの端々に現れています。彼らはイエス様を行いにもことばにも「力ある預言者」と思っていました。確かに父なる神のみことばを預かっていらしたという意味で、主イエスは力ある預言者です。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられる一人子の神が、神を解き明かされたのである」とあるように、イエス様だけが父なる神様を見た唯一のお方として、父なる神様の愛と義とをその生き方とおことばをもって解き明かしてくださいました。イエス様はたしかに力ある預言者でした。しかしほんとうは預言者以上のお方であったのです。
 また、彼らはイエス様を「イスラエルを贖ってくださる方」だと望みをかけていました。確かにイエス様はイスラエルを贖ってくださるお方です。しかし、実際にはイエス様はイスラエル民族だけの贖い主ではなく、すべての民族国語を超えた贖い主であったわけです。
 主の復活についての弟子たちの戸惑いにも、彼らのメシヤ観の欠けが見えます。彼らは決してイエス様の復活をありえないこととして否定しているわけではありません。彼らは復活の出来事を受け入れたい、しかし受け入れがたくて当惑している。なぜでしょうか。それはイエス様を神だと思っていないからでしょう。力ある預言者であり、イスラエルの政治的な解放者であるイエス様だとすれば、たしかに、復活が文字どおりに起こるとは考えられません。
 自分は復活すると予告して、事実復活することができる人がいるとすれば、それは誰でしょう。死に対しても主権を持っていらっしゃるお方以外にはありえません。死に対して主権を持っているのは誰でしょうか。それは、生命をお与えになりまた取り上げなさる神以外にはありません。

4.イエス様の啓示

 イエス様の十字架の死と、今朝方、墓が空っぽだったという事実に戸惑い、信じたいけれど信じられないでいる弟子たち。彼らに対してイエス様はまず同伴なさっていっしょに何キロもの道を歩いてくださいました。そして、彼らの失望、とまどいといったことをよく聴いてくださいました。それから、イエス様はご自分から話を始められたのです。
25節―27節
「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

 ポイントは、「すべて」ということばでしょう。弟子たちは確かに旧約聖書時代の預言者たちがメシヤについて言ったことの一部分は信じていました。それは、メシヤは栄光のうちに来られるとか、イスラエルを贖ってくださるということです。けれども、彼らが信じていなかったのは「メシヤが苦しみに会った後に」栄光にはいるということでした。つまり、栄光のメシヤばかり待ち望んでいて、メシヤがまず苦しみを受けてからそのあと栄光のうちにはいるということを見落としていたのです。
 そこで、イエス様は旧約聖書の一部分でなく旧約聖書全体からメシヤ預言を正確に解き明かされたのです。メシヤは来る。だがそのメシヤはいきなり栄光のうちに来るのではなく、まず民のために罪を身代わりに背負って苦しんでくださり、しかるのちに栄光を取られるのです。たとえば有名なイザヤ53章です。
 こうしてイエス様がみことばを解き明かされると、弟子たちの心の中が燃えるようでした。見えなかった真理が見えるようになり、意味のないものに思えたみことばがいのちあることばとして、力あることばとして胸にせまったのです。イエス様が苦しみに遭われた意味もわかってきました。そして、イエス様が死の後によみがえられることも預言の解き明かしからわかってくると、弟子たちの心はまさに燃えました。確かにイエス様はよみがえられたのだということがわかってきたのです。
 十一キロの道のりが終わろうとしていました。エマオ村はが見えてきました。日も西の空に傾きかけています。イエス様は、そのまま先に行ってしまいそうなそぶりをなさいました。弟子たちがどれほどみことばに渇いているかを試されたのです。イエス様は引き止めてもらうことを期待しながら、行くそぶりをなさるのです。主イエスはときにこういうそぶりを見せられます。はたして、弟子たちは「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕方です。ぜひ、ぜひ。」といってイエス様をとどめたのです。
 イエス様はつれないそぶりをなさるとき、なお熱心に願うことをイエス様が期待していらっしゃることがあります。無理にでも引きとどめてもらうことを、イエス様は待っていることがあるのです。「そうですか、ではさようなら」と妙に物分りよく、あきらめのよい信者をイエス様はお喜びになりません。主の祝福、主のみことばを求めるに当たっては貪欲なほどであることを主はお喜びになるのです。
 こうしてイエス様は二人の弟子といっしょにエマオの宿に入られました。夕食時になりました。イエスが天に向かってパンを差し上げ、祝福をして、裂かれた瞬間、その瞬間!彼らの目が開かれました。「イエス様だ!」今まで、なぜイエス様を見ていながら見えなかったのでしょう?不思議です。でも今ははっきりとわかりました。イエス様です。
 みことばが解き明かされて心が燃え上がり、ついでパンが裂かれるそのとき、復活のイエス様を彼らは見ることができたのです。みことばとパン裂きが相伴ってこそ、復活の主イエスにお目にかかれるということを示唆する出来事です。

むすび
 きょう、イエス様というお方について、私たちはいくつかのことを知り、味わいました。イエス様は私たちの人生の同伴者となってともに歩いてくださるお方です。失望して、肩を落として人生の道を歩んでいるとき、イエス様は私たちの人生の同伴者となってくださいます。
 イエス様はときにユーモアに満ちたお方です。私たちの人生にも、ときどき謎をおかけになったりして、私たちとの会話――私たちの側からいえば祈り――を楽しまれるのです。私たちも思いのたけを正直にイエス様に申し上げれば聞いていただけるのです。イエス様は忍耐強く私たちの話に耳を傾けていてくださるのです。
 イエス様は、聖霊によってみことばを解き明かしてくださいます。心が燃えるような経験をして、今まで読んでいたけれどほんとうには分かっていなかった、主のみことばを理解することが出来るようになります。「そうだったのですか!」と主に向かって叫ぶ瞬間があなたにも訪れるでしょう。