苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

荊冠の王

 キリストには預言者・祭司・王という三職がある。預言者の務めとは、神のみことばをわたしたちに取り次ぐ働きである。キリストは預言者の務めを、人として世に来られ、ご自身の教えと生き方をもって示され、また御霊によって聖書を啓示なさることによって遂行され、今も遂行していてくださる。祭司の務めとは民のためにとりなしをし、いけにえをささげることである。キリストは祭司のつとめをご自分を十字架上でいけにえとして神に捧げ、復活の後は今も私たちのために父なる神に向かってとりなしていてくださることによって果たしてくださったし、果たしてくださりつつある。
 では王の務めとはなにか。王の務めとは、敵から民を保護し、民を正しく統治することにある。キリストは敵である死と悪魔に対して、最終的にはご自分の十字架の死によって死を滅ぼすことによって遂行された。そのとき、キリストは黄金の冠をかぶり鋼の剣を取り軍馬にまたがる王ではなく、荊冠をかぶり葦の王勺を持つ王、ろばの子にまたがる王としてその務めを遂行された。
 最近、ピューリタン革命の勉強をしている。十字軍は最初からキリスト教の装いをしつつ動機が不真面目でいかがわしいものなので、結末が恥ずべきものとなったのは当然だと思うのだが、ピューリタン革命はきわめて真面目に主にしたがうことを願ったオリバー・クロムウェルが展開したのに、その結果はずいぶん血なまぐさく悲惨なものだったなあと筆者の目には映る。その理由はなんだったのかと考えさせられてしまう。
 イエスは王であられたが、荊冠をかぶられた王であった。ご自身十字架にかかって、敵をゆるすことによって、その王職を遂行されたことを私たちは忘れてはならないのではないか。キリスト者が今の世で「王」として生きるということは、荊冠をかぶられた王イエス・キリストにしたがうこと以外であってはならないと思う。