苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ただひとつのしるし

   マタイ12:38−45


1.しるし

12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」


エス様は、いましがた、悪霊によって眼が見えず、耳も聞こえなくなってしまった人から悪霊を追い出して、目が見えるようにして耳が聞こえるようにしてあげたところです。群衆は、このしるしを見て、「この方はダビデの子なのだろうか」と反応したのです。つまり、「しるし」が指し示す意味を少しは読み取ったのです。「ダビデの子」というのは、メシヤの別名でした。ただし、その別名はダビデ王朝を回復させる政治的な王としてのメシヤのイメージの強い表現ですから、十分な理解ではありませんでしたけれども。
 一方、パリサイ人たちは、今、目の前でしるしを見せられていながら、「イエスは悪魔の力で悪霊を追い出しているのだ」と暴言を吐いて、イエス様から厳しく「聖霊に対する冒涜は赦されない罪だ」と叱られました。そこで、彼らはなお「しるしを見せてください」というのです。すでにイエスによってなされた鮮やかな奇跡を目の前で見た上で、なお信じようとしない彼らは、いったい、何を見たら、それを「しるし」であると認めるのでしょうか。何が不足なのでしょうか。
 あるいは、こういう種類の癒しの奇跡というものは、必ずしも神の力によるのではないから信用できないということなのかもしれません。確かに新興宗教などでも、なにやら霊的な力で癒しを行ったりするというふうなことがあるようです。イエス様の悪霊追放を、悪霊によるのだといってのけた彼らとしては、癒しというしるしはなんともうさんくさく映ったのです。もっと客観的なしるしはないのか?というのです。


 心かたくななパリサイ人に対して、主イエスは、しるしを求めるユダヤ人たちは「悪い姦淫の世代である」とお嘆きになります。ある先生は意味深長な注釈をしています。「姦通して夫婦の契りを破った男女にかぎって、お茶漬けのようにしみついているはずの夫婦愛を疑って、しるしや証拠によって愛の有無を確かめたがるものです。」あるいはそういうものなかもしれません。本当に信頼し合っている夫婦は、お互いの愛の物的証拠などというものは求めないし求める必要も感じないものなのでしょうね。まあ、そんなことを口実にして奥さんにプレゼントしないケチな夫にはならないほうがよいですが(笑)。
 神の民にとって、神の御真実は疑いようのないものなので、証拠(しるし)などなくても、神を信じるものなのです。ところが君たちは、なにか特別の奇跡やしるしがなければ信じられないという。それは、君たちが姦淫の世代だからだと嘆かれるのです。そして、おっしゃいます。

「だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
12:40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

 「預言者ヨナのしるし」というのは、ヨナが三日三晩大魚の腹のなかにいて、それから出てきたように、人の子イエス・キリストも十字架にかけられて死んで後三日目に復活なさるということを意味しています。キリストの復活という出来事は、癒しとか悪霊追い出しとかいった種類の「しるし」のように、もしかしたら主観的な思い込みであったりするといったものとは違って、客観的な事実です。そういう意味で、キリストの復活は唯一のしるしであると言えます。
 実際、法律家がイエス様が十字架にかけられて殺され、かつ、三日目によみがえったという出来事は、まじめに調べた本がありますが、彼は復活について調査して、これは歴史上の事実である以外の可能性のないと結論付けています。ただ、この人のようにまじめに調べようとする人が少ないのです。
 ルー・ウォーレスという人物がいました。彼は軍人であり、キリスト教が大嫌いな人物でした。彼は自分のライフワークとしてキリスト教を撲滅することと思い定めて、聖書の研究・歴史調査・現地の調査など徹底的な調査を行いました。数年の研究ののち、ウォーレスは主の前にひざまずき、祈らざるをえなくなりました。「イエス・キリストさま。あなたは確かに復活された主です。」
 そして、彼は、その反イエス・キリスト研究の過程で調べ上げた成果を存分に用いて小説を書きました。それが『ベン・ハー』です。ごぞんじのように、ハリウッドでチャールトン・ヘストンを主人公役として映画化されました。
 今日はごく簡単ですが、キリストの復活の客観的論証の枠組みを示しておきます。
 もし、イエスが死んでよみがえらなかったとすれば、死体があるはずです。その死体は誰の手にあるのでしょうか? 可能性は二つです。第一はユダヤ当局です。もしユダヤ当局がイエスの遺体をもっているとすれば、初代教会が「イエスはよみがえった」と宣教し始めた時、ユダヤ当局は「なにをバカなことを言っている。ここにイエスの亡骸があるぞ。」と証拠を見せたことでしょう。しかし、実際にはそうしませんでした。ということは、ユダヤ当局のもとにはイエスのなきがらはなかったということを意味しています。
 では、ユダヤ当局の手元にイエスの亡骸がないとすると、マタイ福音書の28章に書かれているのですが、当局が主張したように、イエスの弟子たちが亡骸を盗んで弟子たちの手元にイエスの亡骸があるのでしょうか。もしそうであれば、当然のことながら、弟子たちはイエスは死んでしまって復活などしていないという事実を誰よりもよく知っていることになります。では、彼ら弟子たちは、いったい何のために「死んでしまったイエスがよみがえった」などと宣伝してまわったのでしょうか。このように宣伝して廻ることには、あまりにも大きな犠牲がともないました。弟子たちは、イエスの復活を宣伝したかどで、投獄されて拷問されて死刑に処せられました。しかし、彼らはその犠牲もいとわないで、「三日目にナザレのイエスはよみがえりました。」と宣伝しました。
 というわけで、弟子たちの手元にも、ユダヤ当局の手元にも、イエス様の亡骸はなかったということが明らかです。では、イエス様の亡骸はどこに行ったのでしょうか。唯一の答えは、「主イエス様は歴史上の事実として、よみがえられ、弟子たちはその復活の主にお目にかかったのだ」ということです。
 最近の著述家でこの研究を徹底的にした人のひとりに、リー・ストロベルというジャーナリストがいます。『ナザレのイエスは神の子か』という本に、書かれていますので、呼んで見られたらどうでしょうか。
 イエスが死んで復活したということが客観的事実ですから、キリストの十字架と復活の福音というのは、人間が考え出した宗教思想の一つといったものではありません。キリストの福音は事実なのです。ただの宗教思想であれば、自分の好みで信じたり信じなければそれでよいのですが、キリストの十字架の死と復活とは事実ですから、信じれば神の前に罪の赦しと永遠のいのちを獲得し、信じない人は永遠の滅びを選択することになります。


2.ニネベの人々、南の女王


 イエス様は、ヨナの宣教を受けたニネべの人々、それから南のシェバの女王のほうが、イエスの宣教としるしを目のあたりにしながら、なお信じようとしないパリサイ人たちに信仰的に勝っていて祝福されているとおっしゃいます。

「12:41 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」

 なぜならば、異邦人であるニネベの人々は旧約聖書の預言もなにも知らなかったのに、ヨナがただ「このニネベの町は滅ぼされます」と告げて回ると、格別のしるしも奇跡もありませんでしたが、ただちに胸を刺されてまじめに悔い改めたからです。異邦人のニネベ人の方が、神の民イスラエルよりも信仰深く、祝福されているのです。
 しかも、今、パリサイ人たちが目の前に見ているのは神の御子が人となっておいでくださり、奇跡まで行なって、その語る福音が真実なものであると証しているのです。預言者ヨナよりもまさった者がきているのに、あなたがたのかたくなさはどういうことか、と。

12:42 南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。

 南の女王もまた神の民ユダヤ人たちにとって異邦人でした。彼女もまた旧約聖書を知っていたわけではありませんが、はるか彼方の南の国でソロモンの噂を聞いただけで、はるばるやって来てソロモンの話を聞きに来たのです。ところが、今、ユダヤ人たちは神の御子イエスがはるばる天から下って来てくださったのに、そのイエス様を信じないのですから、南の女王最後の審判のときにユダヤ人パリサイ人たちをさばくことになります。

 神の御子が人となっておいで、旧約時代のいずれの預言者にもまさるこの上ない啓示がなされたのです。


3.聖霊に満たされることがたいせつ

12:43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
12:44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
12:45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」

 文脈から見て、イエス様は、これをイスラエルの民、この国のことを話していらっしゃると理解すべきところです。イエス様は、ユダヤの人々に宣教をし、悪霊を追い出して回られましたので、たくさんのけがれた霊たち追い出されました。ところが、悪霊を追い出されたけれども、イエス様を信じて聖霊によって満たしていただくことをしなければ、44節、45節にあるように、悪霊が仲間を連れて帰ってくるので前よりもひどくなってしまいます。
 実際、イスラエルの民の中でイエス様を受け入れた人々はいましたが、それは一部の人々であって、民族全体としてはイエス様を拒んでしまいました。そして、新約の教会に主が注いでくださる聖霊に満たされることもないままに、イスラエルの国はローマ帝国によって滅ぼされてしまうことになります。紀元後70年のことです。
 
 これは、私たちに対する警告です。イエス様を信じて新しい生活が始まり、よろしくない古い生活習慣を止めたとします。それはよいことなのですが、イエス様を信じた者らしく、聖霊に満たされて、新しい生活習慣を前の空白部分に入れるべきなのだということです。そうしなければ、もしかすると、逆戻りして前よりも悪い生活に陥ってしまうかもしれません。たとえば、日曜日にパチンコに行っていた人が、それをやめて、主の日は何よりも神様を礼拝するために教会に集うこと、朝に夕に祈りみことばに親しむこと。
 このように古い物と、新しい御霊に満たされる生活とを入れ替えるのです。そうしないでいると、またぞろ古いものが隙を狙って、悪い仲間をつれて戻ってきます。
 御霊に満たされ続けること、繰り返し御霊に満たされることが大事です。

「5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。 ・・・5:19 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。 5:20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。 5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。さいということです。」エペソ5章18節から21節

キリスト者になりたての人と、十年、二十年キリスト者生活をしている人と、どちらがより日々みことばに親しみ、祈りに時間を割き、教会生活に励むことが必要だかわかりますか? 5歳の子どもと大人とどちらが多くの食事を必要とするでしょうか。いうまでもなく、大人でしょう。大人のほうが胃袋もからだも大きいからです。同じように、クリスチャン生活が長いほど、多くのみことばの養い、信仰書に親しむこと、多くの祈りと奉仕が、魂の養いのために必要となるのです。長くクリスチャン生活をしている人の方が、初心者よりも器が大きいからです。ところが、えてして逆のことをするので、「初めの愛」を忘れてしまうということが起こります。そして、器が大きくなったのに、そこを満たしていないので、悪霊が仲間を連れて戻ってくるということになります。
信仰生活が長くなり、そして、豊かになるためには、私たちはより多くの時間を主のためにささげ、主と親しくなる必要があるのです。


結び
1. キリストの復活という客観的に確かな歴史的なしるしをもって、主イエスはご自分がまことの神の御子、救い主であることを私たちに明らかにしてくださいました。このしるしをしっかりとわきまえて、救いを確信しましょう。もし、あいまいな人がいたならば、ストロベルの著書などをお読みになるといいです。

2.信仰生活が長くなればなるほど、御言葉と祈りと礼拝生活と奉仕に励み、御霊に満たされ続けましょう。いよいよ、主にある喜びに満ちることでしょう。