苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中央線を走りながら


 久々に小海から野辺山、清里をへて小淵沢に向かう小海線に乗った。岐阜長良キリスト教会にご奉仕にうかがうためである。雨に洗われた緑の美しいこと。いつでもイノシシや鹿が飛び出してきそうな線路である。中央線も小淵沢から茅野はなかなかよく、塩尻から木曽川に沿っての変化に富む風景をなかなかだった。信州というところは、いまさらながら美しい。
 このように車窓から外を眺めながら、加藤信朗先生の『アウグスティヌス「告白録」講義』をゆっくりと読んだ。講義録なので、あの加藤先生のラテン文朗読が耳の底に響くような思いがした。magnus es domine et laudabilis valde.(あなたは大いなる方。主よ。ほめたたえられるべき方)だったっけ。告白の冒頭だけ覚えている。神学校卒業後、牧師としての務めのかたわら、三年間、加藤先生の教室で学んだが、知力体力ともに欠けていて、弟子と呼ばれるに値しない者であったのに、今もこのような者に論文やお便りをくださる先生である。斯界のおそらく三本の指にはいるような碩学でいらっしゃるのに、路傍の石ころを忘れずにいてくださるのには恐縮するほかはない。ただ同じキリストの信徒として、伝道者を尊ばれるからなのだろう。
 神が人に与えてくださったことばによって、己が信じる神を誠実に求める、その誠実さが彼の「敬虔」であると加藤先生はおっしゃる。敬虔ということばの意味が、アウグスティヌスにあっては近代敬虔主義のそれとはずいぶんちがうなあと思った。知性と感性が分離してしまなわい時代のものということなのか。中央線に揺られて加藤先生のご本を読んでいたら、うつらうつらと第三の天に行きそうになってしまった。
 小淵沢塩尻、名古屋を経て岐阜に着くと、増田先生と晩御飯。サワラの焼いたのと、枝豆と、切干大根と、赤だしと、お漬物、ご飯。赤だしをいただいて、名古屋の文化圏に来たなあと思った。おいしかった。明日の夜、長良川の鵜飼を見に連れて行ってくださるそうだ。うれしいな。 
あした、あさって、長良キリスト教会の兄弟姉妹たちと主をあがめ、みことばに聴こうとしている。主の助けを願い求めて祈る。小海キリスト教会では、荒籾伝道師がみことばを取り次いでくださる。