苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

宮村先生との出会い(その7)

「一度にすべてではなく」
 神学生たちの間で、しばしば「宮村節」ということばがささやかれた。すでに申し上げた「存在の喜び」、「人格は手段としてはならない」、「ことばの真実」それから「新しい天と新しい地」などは宮村節の代表格であろう。それぞれに味わわれるべきことばであるが、宮村先生の著作と歩みを理解する上で役に立つこととして、筆者がここで特に取り上げておきたいのは、「一度にすべてではなく」というフレーズである。これは「地域に根ざし、地域を超える」「体験でなく経験へと深まって」「マンネリを恐れず」といった表現と深い連関がある。この表現で、宮村先生は私たちに何を教えようとなさるのだろうか。現在の私の理解するかぎりにすぎないが、ここに記してみたい。
 宮村先生がしばしば口にされる「一度にすべてではなく」というのは、本書に収録された「宣教・説教と組織神学」の結論部分でも引用されているヘブル書の冒頭のことばから来ている。
「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」(ヘブル一1,2)
 聖書における神の啓示が、一度に聖書全巻を明らかにするのではなく、神のお定めになった時の中でさまざまな人々を通してさまざまな方法で徐々になされ、最後にイエス・キリストにあって完成へと導かれた。こうした啓示の方法は、啓示というわざにおいてのみならず、神の創造と摂理のわざ全体を貫いている原則であり、神に従う民がわきまえるべき原則である。このことを宮村先生は「一度にすべてではなく」と表現なさった。
 聖書解釈にこのことを適用するとき、「すべて」とは救済史全体を意味している。その「全体」のなかでこそ「部分」に意味がある。宮村先生は論文でも学会でも、しばしば全体的・救済史的視点なしに各書や各章や各節を釈義しようとすることは、聖書主義ではなく聖句主義にすぎないと断じて、救済史神学の創始者エイレナイオスを引用しながら、真の聖書主義を力説なさってきた。エイレナイオスによれば、歴史とは聖なる牧者である神が創造から終末の目的にいたるまで導く過程なのである。
 さて、宮村先生の理想主義的に聞こえることばが永遠の観念世界に留まらず、もみの木幼児園の歩みや、沖縄における教会やキャンプ場の歩みという、時の中に具体的に実を結んできたのは、先生が「すべて」を強調しながらも同時に、「一度にすべてではなく」という原則を常に自覚してこられたからである。かりに理想として掲げられたものが千であり、現実が一でしかないと、ほとんどの人はそこに「理想と現実のギャップ」を見て前に進もうという意欲そのものを失ってしまうであろう。けれども、宮村先生は「一度にすべてではなく」という神の摂理の原則をわきまえておられたから、掲げられた理想が千であろうと万であろうとも失望することなく、今日の一歩を踏み出し、歩み続ける勇気と忍耐を保ち続け、私たちを励まし続けることがおできになるのである。そういえば、神学生時代、同室の先輩が「理想の対義語は現実ではなく、現状なのだ。」と語っていたことを思い出す。到達すべき理想を見上げながら現状から一歩踏み出す勇気。この勇気を「一度にすべてではなく」という原則は与えてくれる。
 「一度にすべてではなく」という原則が、教会の宣教のわざに適用されるとき、「地域に根ざし地域を超える」ということになるであろう。教会において「すべて」ということが意味する理想は「教会の公同性」ということである。だが公同教会の理想のみを唱えていても、そこには内実ある教会の公同性は生まれては来ない。地域教会が、その地域に徹底的に根ざして、苦闘しながら宣教のわざを展開していくとき、初めて地域と時代を超えて公同の教会に共通する課題を見出す。そして、苦闘はしていても、ともに戦う戦友たちが地域を超えて時代を超えているのだという喜びに目覚めることになる。ここに、内実のある公同性が獲得されるということである。・・・とは書いたが、なお筆者には十分わかっていないので舌足らずであるが、今遣わされた信州の地での伝道に奮闘していれば、いつか筆者にも十分に理解し表現できる日が来るのかもしれない。
 また、「一度にすべてではなく」という原則が個人の生に適用されるとき、「体験が深められて経験となる」ということになる。宮村先生ご自身が明かされるように、体験と経験という語の独特な用い方は森有正の思想と用語法から来ている。私は神学生時代、先生に薦められて森有正の全集とその他の著作を手に入れて一時期読みふけったことがある。理解のために森有正のことばをふたつばかり「ひとつの『経験』」というエッセーから引用しておこう。
 「私の生活の中にある出合いがあって、それが人であろうと、事件であろうと、その出合いが私の中に新しい生活の次元を開いていく、そして生活の意味自体が変化していく。それを私は『経験』と呼ぶのであって、記憶の中にただ刻みつけられ、年月とともに消磨して行くもの、あるいは、自分の生活の一部面の参考となるに止まって、そこに新しい次元を展くに到らないもの、それを私は『体験』と呼ぶのである。」
「一つの『体験』がその人と一体となり、その人の中核となり、その人の成長に広大な新しい次元が生まれるまでには時間の経過が必要である。この時間の経過に耐えるとき、それは経験となる。」
 体験が経験にいたるには、「マンネリを恐れず」である。荒野のイスラエルは、「毎日マナしかないではないか」とマンネリを嫌ったことによって罪に陥った。毎日、毎週、毎月、毎年、同じことを一見繰り返しているようでありながら、神の摂理に導かれて「時」は創造から「新しい天と新しい地」の実現に向かって一直線に前進している。だから、マンネリを恐れず、今日も明日もひたむきに前進する。こうした営みを通してえられるものは、個人的な体験のレベルを超えて普遍性を持つ経験なのである。二十七年前、宮村先生に出会って知った喜びの体験は、時を経てひとつの経験に熟しつつあるということが許されるだろうか。

*この秋、宮村武夫著作シリーズ1『愛のわざとしての説教』が刊行される予定です。先生のご健康のために、お祈りください。