苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

この時のために

ルカ23:50-56          2009年6月21日 小海主日礼拝

 1.ヨセフでなければ
 
 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」最後にこう叫んで、イエス様は十字架上で息を引き取られました。時は、午後三時過ぎでした。このことがローマ総督ピラトに告げられると、ピラトはイエスの死が思ったよりも早かったので、兵士たちはその死を確かめるためにイエスのわき腹から心臓を一突きさせました。水と血が出て、その死は確認されたわけです。
その日は、安息日の備えの日でしたから、日が落ちて安息日になれば何もすることが許されません。安息日に十字架の上に人をかけて置くわけにはいきませんから、人々は急いでいました。イエス様の両脇の十字架の犯罪人たちはなお息がありました。そこで、ローマ兵が大きなハンマーで彼らのすねを砕きますと、二人は窒息して絶命しました。ローマ帝国の習慣としては十字架刑の死体はカラスやはげたかの餌食として放置されるのが普通でしたが、ユダヤでは例外的に、犯罪人たちの死体捨て場に運ばれることになっていました。さらに例外的にですが、引き取りを申し出る者があり、当局がその引き取り手に特別に許可すれば引き取ることも可能だったそうです。
 太陽は西の方に傾いています。このままでは、イエス様のみからだも、犯罪人たちの死体といっしょに犯罪人の死体捨て場に運ばれて捨てられてしまいます。どうして、主イエスの亡骸がそんなことになってよいでしょうか。弟子たちも、ガリラヤから主についてきた女たちも遠巻きにして、やきもきしていたにちがいありません。けれども、いったい誰がイエスの亡骸を引き取りますと申し出ることができましょう。ユダヤ当局に反抗しサンヒドリンから死刑に定められた、ガリラヤからやってきた名もない弟子たちでは、申し出たとしても、ピラトがイエスのからだの下げ渡しをしてくれる可能性は万に一つもありません。かりにピラトが度を越して寛容な統治者であって、弟子のだれかが勇敢な人であって申し出たとしても、「お前はイエスの亡骸を納める墓を持っているのか? 持ってはおるまい。」と断わられてしまうにちがいありません。
この状況下で、主イエスの亡骸を引き受けることができる人として誰がいたでしょうか。総督ピラトに対しても顔が通っていて、相当の社会的地位があり、信頼されている人でなければなりません。・・・こうしてみると、イエスのからだを引き取るのは、ユダヤの最高議会議員アリマタヤのヨセフをおいてほかにはいなかったのです。
 そして、ヨセフ自身、そのことに気づいたのです。


2.どっちつかずのヨセフ

 アリマタヤというのはエルサレムの北西40キロほどの町で、ヨセフの出身地です。いつも申し上げるように、当時ユダヤ人はみよじがありませんでしたから、清水の次郎長というのと同じでアリマタヤのヨセフと呼んだわけです。彼は金持ちでもありました。彼はもともとアリマタヤの出ではありましたが、すでに最高議会議員となって功成り名を遂げてエルサレムに屋敷を構えていました。ヨセフがイエス様を迎えた墓が、「まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓」であったとあります。いずれ自分と、自分の一族のためにと造った大きく立派な墓でした。実際、考古学者によってイエスの墓であったとされている園の墓と呼ばれるものを見ると、これまでも何度か申しましたように、それは今日のこっているほかの墓と比べると、非常に大きな墓でした。ヨセフが相当の資産家であったことがわかります。
アリマタヤのヨセフは、財産家であり、最高議会の議員という権力と名誉がある人でした。しかも、きょうの聖書箇所にあるように、世間からの評判も、「りっぱな正しい人」だったのです。
そうして、ヨセフは、「神の国を待ち望んでいた」と表現されているように、イエスさまが宣べ伝えてきた神の国の福音をひそかに信じていたのです。「悔い改めなさい。神の国が近づいた。」とイエス様がおっしゃるときに、ヨセフは信じたのです。マタイは「ヨセフはイエスの弟子になっていた」と記しています(マタイ27:57)。ですから、彼は51節にあるように、「議員たちの計画や行動には同意しなかった。」のです。
 では、ヨセフははっきりと自分がイエスのもたらす神の国の到来を待ち望んでいることを、もっと率直に言えば、自分がイエスの弟子であることを表明していたでしょうか。いいえ。彼は、「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」のです(ヨハネ19:38)。
 ヨセフは何を恐れていたのでしょうか。当時、イエスを信じる者は会堂から追放されることになっていたことです。「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」(ヨハネ12:42-43)。とあるように。
 神政政治が行なわれていたユダヤにおいて会堂に出入りを禁じられるということは、もはや「あなたはユダヤ人ではない」と宣告されることです。市民権を剥奪されることです。もしヨセフが自分はイエスの弟子であると公然と表明するならば、彼はそのユダヤ最高議会議員という議席と名誉を失い、そして遅かれ早かれその財産をも失うことになるでしょう。ですから、ヨセフにかぎらず指導者たちのなかにはイエスを信じながら、それを告白しない人々がほかにもいたのです。たとえばニコデモもそうでした。主イエスがおっしゃったように、「金持ちが神の国にはいることよりも、らくだが針の穴を通るほうがたやすい」のです。
 寛容な記者ルカは、ヨセフが最高議会のなかで取った態度について、「議員たちの計画や行動には同意しなかった。」とたいへん微妙な表現をもちいています。イエス様が、カヤパを裁判長とするユダヤ最高議会の法廷にかけられたとき、最終的に議会は「全員で」、イエスを死刑と定めました(マルコ14:64) 。「議員たちの計画や行動には同意しなかった」はずのアリマタヤのヨセフは、この裁判のとき何をしていたのでしょう。このとき彼は裁判を欠席したのでしょうか、それとも良心を偽って沈黙を守っていたのでしょうか。形だけは立ち上がって他の議員たちに合わせ、心の中で「私は同意しないぞ」とでもつぶやいていたのでしょうか。
 いずれにせよ主イエスに対する態度を公にせずにいた結果、ついにヨセフは、主イエスを死刑にするという評決に消極的ではあっても参与することになってしまったのです。神の御子と有罪として処刑する判決をくだすとは、人間が犯しうる罪のうちで最も重い罪ではありませんか。教訓はなんでしょうか?私たちは日ごろからキリスト者として、自分の主に対する態度、信仰についての旗幟を鮮明にしておくべきだということです。そうしないと、思いがけない罪の中に巻き込まれてしまうことになります。


3.間に合ったヨセフ

 アリマタヤのヨセフは神の国を待ち望み、主イエスの弟子でありながら、イエスを有罪とする判決に責任ある立場で、加わってしまいました。「自分は本当は賛成ではなかった。自分ひとり反対したとしても結果は同じだった」などといういいわけを心の中でしても、それが神の前で通用しなことは、ヨセフ自身よく知っていました。「もう自分は地獄ゆきだ。私は主イエスを裏切ったのだから。」とヨセフは絶望したのです。
そのあと、ヨセフはイエスのあとを追い、ピラトの官邸でのイエスの態度を見ました。はげしく鞭打たれるイエスのお姿を見ました。十字架を背負ってゴルゴタへと向かう主イエスを見ました。ゴルゴタの丘で呪いの十字架にかけられながら、罪人を赦す祈りを捧げられた主イエスの声を聞いたのです。ヨセフはわかりました。
「主イエスは、この私のために、祈られたのだ。『父よ。ヨセフを赦してください。彼には自分が何をしているのかわからないのです。』と祈ってくださったのだ」と。
その後、正午になると太陽が光を失ったことも、ヨセフは、そこにいて見ていたのです。ヨセフが信じたとおり、イエス様はまぎれもなく神の御子でいらっしゃいました。
 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」主イエスが十字架で死なれたとき、ヨセフはもはやいても立ってもいられなくなりました。イエスの亡骸を引き取ることは、ユダヤ議会の決定に公然と反対することを意味しました。今後、イエスに対する憎しみと反感が、ヨセフの上に降りかかってくることは必定でした。会堂を追放され、ユダヤの市民権を失うことも必定でした。けれども、十字架のイエス様を目の当たりに見たとき、自分の罪のために赦しを祈ってくださったイエスの声を聞いたとき、ヨセフは、今まで捨てがたく思っていた莫大な富も家屋敷も、サンヒドリン議員のバッジもちりあくたとなりました。イエス様をほんとうに知るとき、世のすべてのものはちりあくたとなるのです。
エスの亡骸について、「今、この時こそ、私が主のために自分のすべてをささげるべきときだ」とヨセフは思って決断したのです。最後の最後のチャンスに、ヨセフは主の弟子としての奉仕者として間に合ったのでした。アリマタヤのヨセフ、よかったですねえ。
「この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていた。」ルカ23:52-54
 たしかにヨセフは主イエスを裏切りました。けれども、主イエスは、ヨセフをお見捨てにはならなかったのです。たしかに金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通ることのほうがたやすいのです。けれども、神に不可能なことはありません。十字架にかかられた主イエスを仰ぐならば、らくだも針の穴をくぐり、金持ちも神の国にはいるのです。