苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主イエスの瞳     ルカ22.47−62   


主が振り向いてペテロを見つめられた。(ルカ福音書22:61)


1. イスカリオテ・ユダに

「イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。だが、イエスは彼に、『ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか』と言われた。」

 オリーブの木々の枝間から漏れる月光が、祈り終えた主イエスと弟子たちを照らしていました。弟子たちがこれからどうなるのかと考えるまもなく、林の向こうに多くの松明のあかりがちらちらと見え、人々の声が近づいてきました。主イエスを捕縛しにきた大祭司カヤパの手の者たちでした。先頭に立つのはイスカリオテ・ユダ。ユダはすでに銀貨三十枚と引き換えに主イエスを敵に売っていたのです。

 三時間ほど前、過越しの食卓を中座したユダは、大祭司のもとに走って告げました。「さあ、今夜がチャンスです。」彼は数日前すでに敵のもとにひそかに出かけていて、虎視眈々とイエスを引き渡す機会をねらっていました。ユダはまず、祭司長の手の者たちをマルコの家に案内しましたが、そこはすでにもぬけの殻でした。しかし、ユダは主の行き先がゲツセマネであることをよく知っていましたから、慌てずに言いました。「今夜もイエスはゲツセマネの園で祈っているにちがいありません。」こうしてユダは男たちをオリーブ山に導きました。捕り手の男たちは片手に剣やこん棒をもち、もう一方の手に松明をかかげて、ゲツセマネにやってきました。

 さらにユダは用心して、捕り手の人々と「私が口づけをする人、それがイエスである」というふうに打ち合わせをしました。もしオリーブの木陰にとりまぎれて、弟子の一人をイエスと取り違えてイエスに逃げられないためです。当時のイスラエルでは弟子が自分の師に対する愛と尊敬をあらわすために口づけするという習慣がありましたから、口づけをもってイエスを指すつもりでした。・・・・それにしても、よりによって親愛と敬愛の表現である口付けをもって主を裏切るとは。いかにも悪魔が思いつきそうな手口ではありませんか。

 いったいイスカリオテ・ユダの心に何が生じて、ここまで主イエスに敵意を抱くようになったというのでしょう。最終的な引き金となったのは、先に学んだように 、ベタニヤのマリヤが主に高価なナルド油を注いだとき、ユダが「もったいない三百デナリに換金して、貧しい人たちを施せばよかったものを。」とマリヤを非難したのに対して、主イエスがマリヤの側に立って弟子たちをたしなめたという出来事でした。このことに腹を立てたユダは、ひそかに弟子団を抜け出て、イエスを亡き者にしようと相談している真っ最中の祭司長・律法学者のもとへと走りました。ユダがイエスを憎んだ理由は、イエスのおっしゃることが正しく、ユダの発言が実は偽善にすぎないことが見抜かれていることにずっと気づいたからです。ユダは会計係で弟子団の財布から常々着服していました。金銭欲にとらわれたユダの心にサタンが入り込んでしまい、銀三十枚で主イエスを売りました。不当な欲望はサタンの大好物なのです。金銭を愛することはあらゆる悪の根です。こうしてユダは神の御子を裏切るという、大きな罪を犯すことになりました。

 さてユダは「先生お元気で」と言って、憎しみをこめた微笑みを浮かべながら、イエスの頬に口付けをしようとしました。すると、イエスはユダをじっと見つめておっしゃいました。「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」 主イエスの瞳には深い悲しみと憤りが満ちていました。「 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」という嘆きが。平行記事には主は最後までユダに「友よ。」と呼びかけられたともあります。しかし、主イエスのことばはついに石のように固くなってしまったユダの心には届きませんでした。

2.シモン・ペテロに

 ユダがイエスに接吻するやいなや、兵士たちがイエスを取り囲みました。「いよいよ戦いの時が来た。もはやこれまで」と弟子たちは、はやり立ちます。直情径行のシモン・ペテロは、先ほど主イエスにお見せしたサバイバルナイフを、もう鞘から抜き放って、「主よ。剣で撃ちましょうか」というが早いか、主イエスの返事も聞かずに、大祭司のしもべに真っ向から斬り下げました。と、そのしもべがさっとよけたので、その右の耳が地に落ちました。ギャーという叫び。すると主イエスはペテロを制して、「やめなさい。それまで」と言われました。そして、この捕り手の耳にやさしくさわって、たちどころに耳をいやされたのです。ヨハネ福音書がこのしもべの名をマルコスと伝えているところを見ると、彼は後に初代教会のメンバーになったのでしょうね。「俺はあの夜イエス様をとっつかまえに行って、ペテロさんに耳を切り落とされたんだが、イエス様に手ずからいやしてもらったんだよ。」と右耳をさすりながら証言したのでしょう。

 「あなたの敵を愛しなさい」とおっしゃった主は、その通り実行されたのです。ここを読むとき、主イエスはほんとうに自由なお方だなあと感じます。私たちは相手の憎しみに対しては、憎しみを返さないではいられないような不自由なものです。相手が微笑んでくれれば微笑みを返すことができますが、相手がふてくされているといやおうなく、こちらもふてくされて応じてしまい、相手が敵意をもってやってくれば、もう自分も敵意をもって遇してしまう。相手の出方に縛られているのです。いや実は自分の我にしばられている奴隷なのです。ところがイエス様はイスカリオテ・ユダや兵士たちが殺意を持って近づいてきたとしても、その殺意を超越して愛を行なわれます。悪に対して善をもって打ち勝つという道を主イエスは実行されたのです。

 そして、イエス様は押しかけてきた祭司連に向かって、いささかあきれ顔でおっしゃいました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」22:52,53

 「暗闇の力です」というのは、ねたみに満ちた君たちを突き動かしているのは、ただの人間的衝動ではなくて、悪魔の力なのだと指摘なさっているのです。彼らはまずイエスに対する妬みを抱きました。イエスが登場して以来、民衆の尊敬がイエスにみるみる移っていったからです。その妬みを抱き続けたとき、それは憎しみに変わり、やがて、殺意に変わり、ついに殺害を実行することにしたのです。悪魔は邪悪な欲望にしがみついている人の心に入り込んで来ます。悪魔はねたみや憎しみや貪欲など、人間の罪が大好物なのです。ちょうど不用意にゴミを捨てていると、ゴミの中に大好物をさがすネズミやゴキブリが大発生して手のつけようがなくなるようなものです。私たちは自分たちの心のうちに、悪い思いがあることに気がついたら、ただちにこれを神様に告白して掃除していただくことがたいせつです。

 さて、祭司の手の者たちは、イエスに縄をかけて大祭司の家に引いてゆきました。あとを見つからないように遠くはなれてつけて行く人影がありました。シモン・ペテロです(54)。「イエス様。他の連中がみなつまずいても自分だけは躓きません。あなた様のためなら命を捨てることもいとわいません!」とほんの3時間ほど前に大見得を切ったばかりなのです。すたこら逃げ出すわけにもいかないのでした。

 イエス様が連行されたのは、大祭司の屋敷でした。アーチの門をくぐり、手前の庭からさらに奥の中庭にはかがり火が煌々と焚かれてパチパチと音を立てています。そこには緊急でユダヤ最高議会の議員たちが召集されています。これは当時の律法に照らして違法な裁判でした。深夜の裁判は禁じられていました。夜、人は感情的になって冷静で正常な判断ができないからでしょう。また場所が大祭司の庭でというのも、いかにも奇妙です。昼日中に公然と光の下で裁くのでなく、すみやかに闇から闇へと葬りたいという大祭司の意志の現れです。

 ペテロも大祭司の屋敷の門を潜りました。手前の庭には焚き火の周りに人が集っていました。そこからは、奥の中庭で行なわれる裁判のようすをうかがう事ができるのでした。イエス逮捕のしらせを受けた人々が何人かこの庭に集って焚き火の周りにすわりこんでいたので、ペテロも何食わぬ顔でその群集にまぎれて腰をおろしました(55)。しかし、誰かに見咎められるのではないかと、顔を見られないようにとしていました。

 ところが、その中にペテロの顔を知っている女がいました。大祭司の家の女中でした。
「すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。『この人も、イエスといっしょにいたわよ。』」(56)
 ペテロはいつも自分こそ一番弟子だと思って、なるべく人目にも立つようにイエス様にくっついていましたから、どうしたって目に付いたわけでしょう。
「 『ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいや、おらはあの人を知らねえ」と言い』」(57)ました。

 一回目のイエス否認です。また、 しばらくして他の男もペテロに気づきました。彼は「おまえも、彼らの仲間だ」(58)と言いました。するとペテロは、「いや。とんでもねえ。違う。」と答えました。第二回目のイエス否認です。

 奥の庭での裁判はながながと続いています。一時間ほどがたったとき、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」(59)と言い張りました。ペテロのことばがガリラヤ訛りが強かったので、イエスガリラヤ人、お前もガリラヤ人ではないかと指摘されたのです。ガリラヤ人は、シボレテと発音できず、スィボレテと発音したと旧約聖書にあります。 ペテロは、「あなたの言うことはワタスィにはわかりません。ワタスィは、あの人のことなどスィらねえ」と言ったのでした。3回目にイエス否認です。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴きました。コケコッコー!

「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。(61,62)」

 ペテロの心は正義感に燃えていました。そして、イエスとともに死ぬ覚悟もしていたのです。けれども、その人間的な勇気や覚悟は、死の恐怖にとらわれたときに脆くも崩れてしまったのです。私たち人間の勇気や覚悟というものは、こんなものなのでしょうね。。ペテロは勇ましい人でしたから、剣をとってエイッヤーッと戦ってグサリとやられて死ぬというふうな名誉の戦死を遂げる覚悟ならばありあまるほどあったでしょう。けれども、弟子たちには見放されて、縄をかけられて、つばを吐きかけられ殴りつけられて、ひとりぼっち敵に囲まれて暗黒裁判にかけられている惨めなイエス様の様子を見て怖気づいてしまったのでしょう。

 自分の心臓の鼓動を感じながらパチパチと燃える焚き火にあたっていますと、周囲の人たちが「ありゃあ間違いなく死刑だぜ。」「十字架刑だな、ありゃあ。」などと口々にうわさしています。十字架刑とは、数ある死刑の方法の中で最も苦しく、最も屈辱的で惨めなものでした。目の前に勢いよく燃える焚き火とは裏腹に、ペテロの勇気の炎は、すぐにブスブスとくすぶり始めたのです。そのとき、「あなたの顔見たことあるわよ。」と言われると思わず、「いやいや、とんでもない」と首を横に振ってしまいました。「あんた、あのガリラヤ人の弟子だろう。」といわれると、「イエスなんぞ知らない」とイエスを呪うようなことばまでつけ加えて弁解してしまったのです。

 キリスト者であるならば、口が裂けても、これだけは言ってならないことばがあります。「私はイエス様を知りません」「自分はイエスとは何の関係もありません」ということばです。「イエス様。助けてください。」とすがりついて、私たちは罪をゆるされて永遠のいのちをいただきました。けれども、「イエスなど知らない」と言うならば、自分の救いを、いのちを放り出したのです。なぜなら、イエス様こそいのちそのものだからです。イエスを捨てるならば、私たちには滅びしか残されていません。ゲヘナしかありません。

 主イエスご自身、おっしゃいました。「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32−33)シモン・ペテロが赦されたということは、当たり前のことではありません。まことに主のあわれみによることです。

 ペテロの弟子にポリュカルポスという人がいました。スミルナの司教でした。ローマ帝国キリスト教をほろぼそうといました。紀元155年、すぐれた教会の指導者であった年老いたポリュカルポスは逮捕され処刑をするコロセウム(競技場)につれてこられました。総督はポリュカルポスに「誓え、そうすれば釈放しよう。」と彼に迫ります。これを拒否するポリュカルポス。再度総督はかれに「キリストをのろえ」と命じました。すると彼は言ったのです。「わたしは86年間彼に仕えてきましたが、主は何一つわたしに悪いことをなさいませんでした。それなのにどうして、わたしを救ってくださった王をけがすことができましょう。」

 すると総督は「ここに獣が用意してある。もし悔い改めないなら、お前を獣に投げ与えるぞ。」と脅しました。ポリュカルポスは「善いものから悪いものに悔い改めることは、私たちにゆるされておりません。どうぞ獣のところに送りなさい。」と答えました。すると総督は「おまえが野獣を軽蔑するならば、火刑に処するぞ。」といいました。すると、ポリュカルポスは「閣下はほんの一時間ばかり燃えて、わずかの間に消されてしまう火で脅迫なさいますが、それは閣下が来るべきさばきの火、不信仰な者のために備えられている永遠の刑罰の火を知らないからです。」と答えました。こうしてポリュカルポスは殉教しました。

 しかし、ポリュカルポスの師にあたるペテロは、現に「イエスなど知らない」と言ってしまったのです。しかも三度までも。「有罪!」と鶏が判決を下しました。そのとき、主イエスが振り返り、じっとペテロを見詰めました。その瞳を見ると、ペテロはいても立ってもいられず、外に飛び出していって「ああ、主よ。私はあなたを愛しておりましたのに。あなたを裏切ってしまいました。ああ、私は滅ぶべき者です。私にはゲヘナこそふさわしいものです。主よ、あなたを愛しておりましたのに。」と泣いたのです。

 振り向いた主イエスの瞳は、いったい何を語っていたのでしょう?「やっぱり、わたし言ったとおりおまえはわたしを裏切ったではないか。」ということばでしょうか。いいえ。そうではありません。主の瞳はこう語っていたのです。

「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:32