苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖書信仰を受け取って―恩師たちとの出会い

2テモテ3:14-15

 2018年 MBC研修会 開会礼拝

 

3:14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、 3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

 

序 「聖書信仰と教会形成」というテーマでの秋の研修会。講演と、開会礼拝の二回お話をする時間をいただきました。ここでは、みことばを説き明かし、かつ、神様が誰をとおして私に聖書信仰を受け取らせてくださったのかを証します。

 

1 その信仰は誰から学んだのか

 

 聖書の個所は、第一に、「あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知って」いるからだと勧めています。信仰は神と私の関係ですが、ある人からある人へと受け渡される伝統という側面もあるのですね。⒕節から15節前半。テモテは幼いころから、ユダヤ人である母ユニケと祖母ロイスからまことの神様への信仰を学んだのです。お父さんの影がまったく見えないのですが、父親はギリシャ人であったろう、と注解者はいいます。

2テモテ1:5 「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」

 さらに、青年期になったとき使徒パウロとの出会いが与えられて、テモテはパウロから旧約聖書の成就である福音を受け取ったのでした。そして、パウロから按手を受けて彼のうちに御霊の賜物が注がれたのでした。

1:6「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」

 このようにテモテは、幼い日から祖母ロイス、母ユニケからまことの造り主であられる神への信仰を継承しました。そして、青年期になって、使徒パウロとの出会いがあって、それから、その神が遣わされた御子イエスへの信仰を継承したのです。

 第一は、信仰は人格をとおして伝えられるのだということです。単なる情報伝達のようなことであれば、教科書を与えて「それを読んでおきなさい」といえばすむかもしれません。けれども、信仰にかかわる真理は人格的な真理です。人格的な神様が私たちを愛していてくださるというメッセージは、真実な人格関係を通して伝えられます。祖母ロイスが、母ユニケがどれほどわが孫、わが子であるテモテを愛し慈しんで、陰で祈ってきたことでしょうか。「この子が神様を愛し畏れる人として成長しますように」と、祖母と母の祈りがあったのです。そして、青年期にパウロ先生との出会いがあって、「信仰による我が子テモテ」と呼んだほどに、パウロの熱心なテモテへの愛があって、信仰の真理は伝わったのです。信仰の真理は、人格から人格へと伝わるものです。

 

(1)増永俊雄牧師

  高校三年生の秋、身近な人の突然の死という出来事をきっかけとして、わたしは自分の罪、人生の目的ということを考えざるを得なくなりました。当時、私は国文学者を志していたんですが、なんのために大学になど行こうとしているのか、何のために生きていくのか・・・と。考えてみれば、結局は単なる自己満足のためという答えしか思いつかず、生きるということは、なんとむなしいことだろうと思いいたりました。浪人生活が始まり、クリスチャンの友人の紹介で増永俊雄牧師と会うことになりました。ツクツクボウシが鳴いている夏の終わり、蒸し暑い日でした。

 増永牧師にお目にかかって、三つ印象に残ったことがありました。第一は、私が魔女狩りだとか十字軍だとか教会が犯してきた恐るべき罪について、どう考えているのか?という詰問したことに対して、先生は「その通り、私どもはそれほどに罪深いものです、ただ神の前に罪を認めて告白する以外ありません。」とおっしゃったことです。

 第2は、先生が「私の人生の目的は、神の栄光をあらわすことにあります。私がイエスキリストを信じるのも、神の栄光を現わすためです」とおっしゃったことです。私は、それまで宗教とか信仰というのは、自分の願いを安易な方法でかなえてほしいと願う、卑しい人間のすることであるという偏見を持っていましたが、キリストを信じる信仰とはそういうものではないと初めて知りました。

 そして、第3は、私が用意していった質問に対して、先生はことごとく「聖書にこう書いてあります」と答えたり、「聖書に書かれていないことなので、わかりません」とおっしゃったことです。私は内心「この人は自分の意見というものがないのか」と半ば呆れながらも、「この人は本当に聖書が神のことばであると信じているのだ」という強い印象を受け取りました。私はこのようにして、「聖書は神のことばである」という信仰を増永俊雄牧師から受け取ったのです。あれから40年近くたち、聖書を何度読み返したか数えられませんが、私は今日に至るまで聖書は一言一句神のことばであるという信仰を、受け取ることができたことは素晴らしい宝だった、と心から感謝しています。

 

 私は、この出会いから5か月後の19781月に教会の礼拝に通い始めました。そしてイエス様を神の御子、救い主と信じ受け容れたのです。その3か月後には大学進学のために、茨城県に転じましたが、私は聖書を通読しつつ疑問に思ったことを毎週便せん5枚ほどの手紙にして先生に送り、先生はそれに返事をくださいました。この手紙のやり取りは1年近く続きました。 

 聖書信仰というのは、単なる形式上の信仰箇条ではなく、神を信じるキリスト者の人格とその生き方を通して、いのちあるものとして継承されるものです。父と子と聖霊である三位一体の神は、三つの人格の愛の交わりでいらっしゃるので、敬虔な人格とのふれあいを通して、信仰が伝えられることを望まれるのです。みことばを信じ、みことばを生きる人との出会いを通して、聖書は神の言葉なのだという真理が伝えられるのです。

 

2 聖書に結びつける

 

 テモテが幼い日から祖母と母から受け取った信仰、そして、青年期にいたって、恩師パウロから受け取った信仰は、人格を通して与えられたものです。しかし、テモテの信仰は祖母、母、そしてパウロと癒着したものではなく、聖書に根差すものであったということが尊いことです。

3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」

 母ユニケ、祖母ロイス、そして使徒パウロを通して、テモテは聖書信仰を受け取ったのですが、母も祖母もパウロも、テモテを自分に結び付けようとしたのではなく、聖書に結び付けたのです。使徒パウロは「信仰による我が子」とまでテモテを呼びましたけれども、テモテを「パウロ派」の一番弟子に育てるつもりなどさらさらありませんでした。テモテが、神の言葉である聖書に結びつくようにしたのです。「私はアポロにつく」「私はケパにつく」「私はパウロにつく」「私はルターに」「私はカルヴァンに」「私はウェスレーに」「わたしはバルトに」というふうな人々が昔から多いのです。パウロにとってもケパにとってもアポロにとっても迷惑な話でしょう。信仰は、人格から人格へと伝えられるものですが、それは聖書に根差しまことの神に結び付くものとならなければ、不健全な個人崇拝めいたものとなってしまいます。

 その意味で、神様がご摂理によって、私に出会わせてくださった恩師たちは、私を聖書にしっかり結び付けてくださったことを心から主に感謝しています。

 

(1)聖書的説教と自由主義の説教

 私は神戸の教会に通い始めてわずか3か月後には、進学のため茨城県つくば(昔は新治郡桜村)に転じました。増永先生はたいそう心配されました。もし自由主義神学に立つ牧師の教会に行ったならば、新生したばかりのわたしの信仰がおかしくなってしまうのではないか、という懸念をもっておられたのです。以前、大学進学のために神戸を離れて上京した先輩に、そのような人がいたそうです。私は大学に入って、すぐに近所の教会をさがしました。自転車で十分で行ける場所に三角屋根の新しい会堂が建っていました。日本における最大教派の教会でした。日曜日、その教会に出かけてみると、礼拝前の集いで使徒信条の学びをしていました。学びのリーダーが言いました。「『われはその一人子、われらの主イエスキリストを信ず』までははいいけれど、『主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ』はとても信じられませんよね。」というのです。驚きました。さらに、礼拝に出ると、聖書が朗読されるところまでは同じでしたが、説教になると、牧師は朗読された聖書箇所とは何の関係もない社会時評をするだけでした。

 驚き、がっかりしました。「ああ、これが自由主義神学に立つ教会というものなのか」とわかりました。というのは、神戸の教会に通ったのはわずか3か月でしたが、そこで聞いた説教は、正確な釈義に基づいた聖書の説き明かしとしての説教だったので、すぐに違いがわかったのです。

 

(2)朝岡茂牧師のいのちがけの「麦飯的説教」

 その後、友人の白石君に紹介されて、土浦めぐみ教会に通うようになり、朝岡茂先生の説教を聞くことになりました。朝岡茂先生は、当時、マルコ伝、それからコリント人への手紙第一を連続で講解なさっていました。朝岡茂先生は、ご自分の説教を「麦飯的説教である」とおっしゃいました。その意味は、固くておいしくないところがあるけれど、滋養たっぷりであるから、しっかりかみしめて毎週聞き続けていれば、信仰の地力がついてくる説教であるという意味です。主観的な感動的な例話だらけの甘いお菓子みたいな説教ではなく、文脈を踏まえた聖書本文をきちんと説き明かす説教でした。ですから、先生の説教を聞いていると、聖書の読み方が身についてくるという説教でした。

 しかし、朝岡茂先生の説教は、知的であるだけでなく、豊かな喜びと情熱に満ちたいのちがけの説教でした。朝岡茂先生は十数年間結核療養生活をし、その絶望のどん底で神のことばに出会って救われたという方でした。人生の深い悲しみと喜びを知る大きな器で、非常に魅力的な方であり、雄弁な器でした。しかし、先生は、ご自分の雄弁に恃まず「コツコツとみことばを学ぶことが大事だ」ということをしばしば強調なさいました。先生の訣別説教は「神の声に聞く」でした。

 私は、神のことばは、これに命を懸けるに値することを、朝岡茂先生から学んだのです。

 

(3)ヘンリー・シーセン『組織神学』

 また当時、土浦めぐみ教会では主の日の夕拝として、夕方5時から2時間ほど、毎週ヘンリー・シーセン『組織神学』という分厚い神学書を3年間かけて読み通しました。朝岡茂先生は「入門書を読んで10割わかるよりも、本格的な本を読んで5割わかったほうが、実力が付く」というお考えをお持ちでした。シーセンは新約聖書学者であって教義学者ではありませんから、神学の論理的展開という意味ではいまひとつの本だなあと生意気に思っておりました。

 けれども、私は最近になって、シーセンに毎夕拝3年間取り組む中で、教理をどこまでも聖書を根拠として学ぶという姿勢をここで教えられたことに気づきました。彼はそれぞれの教理に関して、古代教父の説、中世ローマ教会の説、宗教改革者の説、近代の神学者の説を述べた後、「では聖書はなんと教えているでしょうか」と問うて、結論を出すという叙述の仕方をしていました。それが私のうちに叩き込まれたのでした。真理の源泉は聖書にあり、どこまでも聖書が真理の物差しです。その説が正しいかどうかは、その説を唱える学者が有名かどうかとか、現代の学界で流行しているかどうかではなく、その説がどれだけ聖書の教えにかなっているかどうかが肝心なことです。

 やはり、この夕拝は、私を聖書に結び付けたのです。

 

(3)津村俊夫先生の堅固な逐語霊感説

 伝道者として献身することを決心した私は、大学での専攻を国文学から哲学に切り替えました。神学の学びの備えのためです。教授たちのうちにはリベラルな神学を背景とした方たちが何人かいました。ある先生は同志社大学神学部出で、日本基督教団教師の資格をもつ方でブルトマンの実存論的聖書解釈とやらをクラスで開陳してみせるのです。また、カール・バルトの直弟子の小川圭治先生からはキルケゴールパウルティリッヒのことを学びました。こういう先生たちは、私が福音派のクリスチャンであると知ると、聖書観をめぐってシビアな議論をしかけてくることが、ままありました。

 そんな中で、私の支えとなったのは、めぐみ教会の信仰生活以外では、聖書研究会の顧問をしてくださっていた津村俊夫先生の堅固な聖書信仰でした。ある日、聖書研究会で私が担当して創世記第三章を読んだときのことです。私が、「蛇はサタンのことです」と私が簡単に説明すると、津村先生はおっしゃいました。「そうでしょうか。『さて神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇がいちばん狡猾であった。』とありますから、これは動物のへびであると書かれています。蛇イコールサタンではなく、サタンが蛇という動物を用いたと読むべきです。」聖書の一字一句を決しておろそかにしない聖書の読み方でした。世界水準のオリエント言語学の専門家である津村先生が、これほど厳格に逐語霊感説に生きておられるということは、強力な支えでした。

 

結び

 「あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知って」いると使徒パウロは言いました。私は増永俊雄先生から聖書は神のことばであることを最初に心に打ち込まれ、朝岡茂先生から聖書はいのちを与え、いのちを賭けるに値する神のことばであることを学び、津村俊夫先生から聖書は一点一画神のことばであることを教えていただきました。これらの先生との出会いがなければ、私は救われることも聖書的な信仰を保ち続けることもできなかったのではないかと思います。説教と生き方をもって、先生方は、聖書に私を結び付けてくださいました。

 先生方から受けた聖書信仰を、私は次に続く方たちにお伝えすることが、自分の任務であると信じて、牧師として北海道聖書学院教師として労しております。

私がキリストに出会うまで

 私がどのようにしてキリストに出会ったのかについて、ここに記しておきたいと思う。私が生まれ育ったのは神戸の須磨区で、小学4年生までは須磨寺町というところに暮らした。目の前に池があり、その向こうは山であり、池の周りが桜並木になっていて、寿楼と延命軒というホテルが建っていた。ちょっとした観光地だった。近所に、日本基督教団の須磨教会の経営する千鳥幼稚園というのがあって、幼い日はそこに通っていた。良い子にはしていたけれど、せいぜい「神様がおるんかなあ」くらいのことでその二年間は終わってしまった。そのキリスト教幼稚園でクリスマス会になると「幸福の王子」の劇をした。なんでキリスト教幼稚園のクリスマスなのに、こんな劇をするんだろうなあと思って、ずっとわからないままにいた。卒園式の日、下村先生が「みなさん、日曜日には日曜学校に来てくださいね」と言われて「はーい」と答えたけれど、日曜学校には一二度行っただけだったと思う。

 そうして、小学、中学、高校時代を過ごしていくことになったが、心の片隅に聖書の神様のことは少し気になってはいたのだろう。末っ子ということもあって、字を読めるようになるのが早かった私は、小学1年生の誕生日4月4日に、母は子ども向きの三冊本を買ってくれた。その中に収められていた子供向きにアレンジされた古事記ギリシャ神話を読んで、この神々と聖書の神はどういう関係にあるんかなあなどとぼんやりと考えたりした。その三冊本の中でほかに気に入ったのは良寛さんの話だった。私の理想の宗教者像は考えてみると、あの幼い日に読んだ良寛さんなのである。それからエジソンの伝記や二宮金次郎の伝記を好んで繰り返し読んだ。といって読書ばかりしているわけではなく、学校から帰ってくると宿題は早々に終わらせて、兄と須磨寺や公園で夕方5時まで遊んで帰ってくるという普通の小学生だった。

 だが、小学・中学・高校と進むうちに、私は進化論の影響を受けてほとんど無神論的になっていた。記憶に残る中で一番古い進化論の知識は、小学校時代に家にあった図鑑のものである。はだかのおじさんたちが焚火を囲んでいるのだが、よく見るとそのおじさんたちにはしっぽが生えているのである。「昔はなあ、人間にもしっぽがあったんや。」というようないい加減なことを、父は話していた。中学生で生物部にはいったころには、私の中で進化論はすでに常識であった。高校の世界史の教師は、相当キリスト教に対して反感を持っている人で、魔女狩りの話、十字軍のことを熱心に教えてくださったせいで、私は決定的にキリスト教会に対して強い反感を持つようになった。そして、岩波新書の『魔女狩り』という本を手に入れて精読し、カトリックの友人Mくんに貸してやるようなことまでしていた。・・・だが考えてみれば、それほどに私はキリストとキリスト教会のことが気になっていたのだろう。

 そんな反キリスト教的な私であったが、聖書とキリストにはなんとなく関心があった。私の父はもともと北九州の人で、戦後、就職で丸紅に就職して大阪に出てきていたが、学生時代の同輩のTさんにヘッドハンティングされて彼が経営するT真珠という会社で営業部の責任をとるようになった。父の取引相手は海外からのバイヤーがほとんどだったようで、よく売れた日は父はご機嫌で「今日は一千万売れた」とか言ってほろ酔いで帰って来たものだった。数少ない国内の取引先に中田実さんという方がいらした。中田さんは、今考えてみると東京に住む無教会の集会の先生で、父あてに「聖書の講解」という白表紙の機関紙を定期的に送ってくださっていたので、本棚に何冊もそれが積まれていた。私は高校生にもなると一応目を通すようになっていった。振り返ってみると、私はその機関紙で初めてルカ伝の放蕩息子の譬を読んだのだった。

 高校二年生の冬、私が生まれた時からいっしょに暮らしていた祖母が風邪をひいて一週間ほど寝込んだが、それをきっかけに祖母が突然いまでいう老人性うつの症状を呈し始めた。家の空気が暗くなり、私は自分の受験勉強を口実にして、あまり祖母にもかかわらないようにして、日曜日も図書館に行っていた。父も兄も、同じように日曜が来てもなるべく家を避けていた。ただ母が一生懸命に祖母の世話をしていた。

 高校三年生の夏休み、私は受験勉強をするために、月曜を除く毎日大倉山の図書館に通っていた。そんなある日、図書館に向かう上り坂にある小さなドリップ専門の珈琲店の前で一人の男性に呼び止められた。「塩狩峠」という映画が無料で見られる。キリスト教の映画だという。ビデオなどない時代、映画が珍しかった。そこで、その日は少々早めに勉強を切り上げて、図書館に来ていた二人の同級生といっしょに大倉山図書館の隣にある神戸文化ホールに出かけた。

 映画は『塩狩峠』。大正時代、北海道の旭川の峠で起きた鉄道事故に取材して作られた小説を映画化したものだった。印象に残ったのは二つの場面だった。一つは、日の暮れかかるころ雪の降りしきる街角で一人の伝道者が、イエス・キリストを紹介していることばだった。「イエスという男は、世にも馬鹿な男で、十字架にかけられて死のうとしている苦しい息の下で、自分をあざける人々のために、『父よ。彼らをゆるしたまえ。そのなすところを知らざればなり。』と祈った。そういうイエスを、私は神であると信じるのであります」と宣言していた。

 もう一つ印象に残ったのは、キリスト信徒となった主人公が乗っていた列車の最後尾の客車の連結部が外れて、塩狩峠を逆走し始めたときに、自らの身を挺して列車を止めて多くの乗客を救った場面である。雪の上に鮮血が飛び散った。

 映画を見終えて、友人二人と大倉山の体育館の石畳のだらだら降る坂を歩きながら、話をした。「あんな死に方できるか?」「いや俺はできひんな。」と友だちが話しているのを聞きながら、私は「ぼくならできるかもしれん」と内心つぶやいていた。私は、自分がどれほど臆病でエゴイストであるかをまるでわかっていない理想ばかりで内実のない青年だったのである。

 その映画を見てから一か月ほど後のある日曜日の夕方、私は図書館での勉強を終えて帰宅した。帰ってみると、母がいない。買い物に出かけているらしい。裏口から入って、台所を通り、玄関ホールに出ていつも祖母が寝ている部屋をのぞいたが、寝床は空っぽである。ふと階段を見上げると、そこに祖母がぶらさがっていた。自殺だった。私は怖くなっていったん外に出た。そして、心の中で「なんでこんな死に方をする。残された者の迷惑やろ。」と死んだ祖母をなじっていた。だが、このままでは母が最初の発見者になってしまう。それでは母があまりにあわれだと思った。若い日に母にさんざんつらく当たった祖母が呆けてしまってから、懸命に世話をしていたのは母一人だった。私は踵を返して家に戻り、110番してから、祖母の亡骸を左腕に抱きかかえ、右手に握ったカッターナイフで荷造りロープを切った。祖母の体はまだ温かくとても軽かった。「おばあちゃん。かわいそうなことをした。」そのとき初めて、人間らしい感情が湧いて来た。
 警察が来て、母が帰って来て、父が帰って来た。警察は事情聴取していた。「心当たりは?」と訊かれて、父は「なんとバカなことをしたのか。思い当たる動機はありません。」と言った。警察は事件性はないと判断してまもなく帰っていった。警察が帰ると、私は「何が思い当たるふしがないや?おばあちゃんは寂しくて死んだんやないか。」と父をなじった。「こんなとき、疑われるんは、私なんよ。」と母はつぶやいた。父は黙っていた。だが、ついさっき、祖母の亡骸を見たとき、私自身、死んだ祖母を「なんでこんな死に方をする?!」と心の中で非難したことを棚に上げていたのである。

 葬儀になって、遠くから親戚がやって来た。つらいのは母だった。結婚以来、姑に日本の嫁らしく口答えすることなくずっと務めを果たしてきて、最後の最後に、大きな挫折をした母だった。私はというと、親戚たちが「十七と言っても、男やねえ。」と言って、死んだ祖母について冷静に処置したことをほめることばを聞いて、むくむくと心の中に傲慢な思いが膨らんで来るのを感じて不快だった。

 葬儀が終わると、日に日に『自分のうちには愛なんてひとかけらもなかった。おばあちゃんの死を前にして、あんな言葉を胸の中で吐き出してしまった。』という、自分自身に対する絶望感が押し寄せて来た。『ぼくは何のために生きるんか。なんのために大学行くのか。こんな愛のひとかけらもない人間に生きる価値はあるんか。』そんなことを毎日つぶやいている三年生の秋だった。ある日の夕暮れ時、「お母さん。人間はなんのために生きるんやろう。」と台所仕事をしている母の背に向かって聞いたことがある。母はしばらく黙っていて、「そうねえ。なんのためやろうね。」とだけ言った。その時、ほんとうに辛かったのは母だったのである。

 そんな日々、私は「何も問題ないときには愛だとか理想的なことを言っていても、自分が窮地に追い詰められたら、自分はエゴイズムのかたまりでしかないことが暴露されてしまう。でも、この世に、ほんとうの愛なんてあるのか?・・・あるとしたら、あの十字架にかかって『父よ、彼らを赦したまえ』と祈ったキリストにだけあるんやろうな。」と考えるようになっていた。映画『塩狩峠』で聞かされた十字架のイエスが、暗闇に閉ざされた心の中ではるか彼方に見えていた。

 翌春、筑波大学の受験に臨んだ。私は国文学者になることを高校二年生から志し、ある教授に師事することを願って選んだ志望校だった。一次試験は合格し、二次試験までの間の宿でギデオン協会の新約聖書でマタイ福音書を通読した。あの映画で聞かされた「父よ、彼らをゆるしてください」というキリストの祈りを捜したが、マタイ福音書には見当たらなかった。二次試験は自分の得意科目ばかりだったので、当然合格するものと高を括っていたのだが、結果は不合格だった。

 浪人生活が始まった。親に経済的負担をかけるのがいやだったのと、得意科目の受験を予定していたので、毎日図書館にかよって自分で参考書と問題集で勉強することにした。関西大学で行われた夏の模擬試験の帰り、電車の中で萩原裕子さんというクリスチャンの同級生と一緒になった。私は吊革にぶら下がりながら、彼女にキリスト教についての不満や非難を込めた質問をいくつかぶつけた。すると彼女は、「私に聞かれても正しく答えられへんから、牧師の増永先生に聞いてみたら?今度の木曜日、うちで家庭集会があるから、その前に来たら会えるわよ。」と言われた。引っ込みがつかなくなった私は、木曜日、彼女の家に出かけていくことになった。

 ツクツクボウシが鳴く夏の終わりだった。萩原さんの家は石畳の坂を登り切った左にある大きく古い日本家屋だった。その一室に通されると、増永俊雄牧師はすでに端座しておられた。先生の背後の簾から光が漏れてくる。私はメモ用紙に10ほど難問を用意して、先生に向かってお話をした。

 印象に残ったことの第一は、なにをお尋ねしても、「聖書はこう言っています」とか「それは聖書に書いていないからわかりませんね」と答えられたことだった。この人には自分の考えというものがないのか?と思った反面、この人はほんとうに聖書が神のことばだと信じきっているのだと驚いた。
 印象に残った第二は、「私が生きているのは神の栄光のためです。私が神を信じるのもまた神の栄光のためです。」といわれたことだった。人生の目的をさがしあぐねていた私には、そのことばは暗闇に差し込んだ光だった。必ずしも意味はよくわからなかったのだが。
 印象の第三。中世の教会がおこなった魔女狩りや十字軍についてどう考えるのかという私の質問に対して、「私たちは神を信じているといいながらも、それほど罪深い者なのです。ですから、神の前に罪を認めてざんげするほかないのです。」と言われた点だった。おどろいた。いろいろと逃げ口上を言うにちがいないと思っていたから。

 このとき、増永先生は「水草君。英語にはTo see is to believe.ということばがあるでしょう。しかし、信仰の世界においては、To believe is to see.なんです。」と理性と信仰の関係について、含蓄あることをおっしゃた。

 この面談の後、私は萩原さんから、イゾベル・クーン『神を求めたわたしの記録』という本をプレゼントされ、三浦綾子旧約聖書入門』を貸してもらった。前者はある女性宣教師が若い日に、どのようにキリストを信じるにいたったかを記した体験談の本だった。「祈って求めると、聞いてくださる神がいるのか、へーっ」と思った。後者を読んで印象深かったのはヨブ記にかんする文章だった。ヨブという人はすべてを奪われたときにも、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と祈ったという。二冊ともすぐに読んでしまったが、なお私はキリストを心に受入れようとしなかったが、とりあえず本屋で旧約聖書を手に入れて、ヨブ記を読んでみた。

 しかし、その後も私は神を信じることはせず、教会に通うこともしないままに12月になった。ある日、萩原さんから電話があった。「今度、教会の青年会でクリスマス会をするから、けえへん?」という話だった。というわけで、教会にのこのこ出かけて行った。それは私が卒業した中学校の正面にあった小さな普通の家だった。だが、入って見ると三十畳ほどのちゃんとした礼拝堂になっていて、正面には黒光りする説教卓があり、両側の窓は縦長のものだった。青年会のために、長テーブルを木の長椅子で囲んであった。クリスマスツリーもなければ、何も飾りがなかったような気がする。もしかしたらあったかもしれないが、ほとんど目立たない程度だったのだろう。集っていたのは高校生、浪人生、大学生、社会人という感じで、一人女性宣教師という人がいた。聖書を開いて読んで、なにか感想を言っていたらしいが記憶にない。ただ一つ心に残ったのは、集会の終わりになって祈りというのが始まったとき、最後に、「・・・神様、しかし、あなたの御心のようになさってください。」と祈るのが聞こえたことだった。祈りというのは、人間が自分の欲を神に押し付けるものだというイメージを持っていたので、新鮮に聞こえた。こうして、浪人のときの年が暮れた。

 翌年1月の半ば、ある夜のことだった。自室で机に向かっていると、なんとも表現できないのだが、胸に迫るものがあって、私は机につっぷして「神様!神様!」と呼んだのだった。祈り方も知らないから、それが私の精一杯だった。その夜,寝ているとき、胸の上にのしかかられる力を感じて目がさめた。部屋の電灯は消えているが、窓の外から街灯の光が入ってきていた。その大きな力に対して、私は「神よ。わたしをゆるしてください。わたしはあなたを信じます。」と祈ってしまったのである。翌朝、えらいことを祈ってしまったと思った。だが、あのように祈った以上、信じるほかないと思った。そのことを増永牧師あての手紙につづった。まもなく返信が届いた。

イザヤ書に『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに呼び求めよ。』とあります。私たちの人生の中で神が近く臨んでくださることは、そんなにあるものではありません。水草くんにとって、今がそのときですから、機会を生かされるように。」という趣旨の手紙だった。こうして、私は次の日曜日から教会に通うようになり、イエスこそ生ける神の御子であると信じるようになったのである。

 
 

 

子とされた恵み

「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」ローマ8章14-17節

 

 クリスチャンになる前、罪人でした。贖い主キリストを信じて罪ゆるされ、キリストのものとされて自由と喜びを得ました(ローマ1章から5章11節)。そして、「罪(悪魔)」から解放されキリストのもの、義の奴隷として(6章)、律法からも解放されて聖化の生活を送り始めたのに(7章前半)、律法にこだわりすぎているうち、あの自由を見失って奴隷の恐怖に陥ってしまい、苦悶することがあります(7章後半)。そして、8章冒頭で、もう一度キリストにあって義とされ御霊を受けたという原点に立ち返り、子としてくださった恵みに生きることについて、彼は力説します。父なる神から、おまえは私の子だ、神の家族の一員だと愛され、その愛の期待に応えて、キリストと共同相続人として、使命に生きていくのです。

 今度の土曜日、北海道聖書学院のオープンデーで、今回はチャペルの御用にあたるので、このみことばをおわかちしたいと思っています。ローマ書理解、神の救いの計画全体のかぎとなる箇所です。

 

 ちなみに、ローマ書8章までのアウトラインについて

 ローマ書は第一部1章から8章で救いの問題を、第二部9章から11章でイスラエルと異邦人から選ばれた者が一つの神の民とされる計画を、第三部12章以下で倫理を扱っている。筆者はローマ書1章から8章のアウトラインを下記のように理解する。

第一部 教理篇

1章「信仰によって義とされる」

<ローマ1:18-4章末>

 異邦人とユダヤ人はともに神の前に罪人であり、律法の行いによっては誰も神の前に義と認められない。神は、キリストの血による宥めのささげ物という刑罰代理の贖いを根拠として、罪人を義と認める(3:21‐31)。4章に入ると、信仰義認のサンプルとして、ダビデアブラハムが取り上げられ、アブラハムの相続の契約が語られる文脈においては、義認がキリストの死と復活に関係すると述べられる。

<ローマ5:1-11>

 キリスト者は、過去にキリストにあって義とされ、それゆえ現在は神との平和をもち、未来は審判で神の怒りから救われる。

 

2章「キリストに属する者として生きる」 

<ローマ5:12-21>二人の代表

 アダムとキリストは人類の二人の代表である。

<ローマ6:1-7:6>罪からの解放

 キリスト者は、代表キリストに属する者として「罪」に対しては死んで「罪」の奴隷状態から解放され、神に対しては義の奴隷として新しい御霊によって生きる。なおここでいう「罪」は単数形で神と対置されて、擬人的に表現されている。

<ローマ7:7-25、8:15>

 律法から解放され御霊によって生きるのがキリスト者だが、律法に捕らわれて、かえって「罪」の力に捕らえられて、再び律法と「罪」の奴隷に戻ってしまったかのような恐怖に陥ることもある。

<ローマ7:24-8:27>

 しかし、その時には再びキリストにあって義と認められたという原点に立ち返り、子としてくださる御霊によって導かれて、神の子ども、すなわち、キリストともに被造世界の共同相続人として生きる。

<ローマ8:28―30>

 1,2章総括として、予定・召し・義認・栄光化という救いの順序を総括し、<8:31―39>いかなる被造物もキリストにある神の愛から我々を引き離すことはできないと歌い上げる。

 

御霊と御力の現れ

 兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(1コリント2:1-4)

 

 パウロアテネのアレオパゴスでは哲学議論をしている人々を相手に、少々教養の片鱗をちらつかせるような伝道メッセージをしたが、次にコリントに出かけたときには、ああいう話はしないと心に固く決めていたという。

 振り返ってみれば、自分自身、ある日を境としてキリストを信じるようになったのであるが、誰かに説得されたわけではなかった。なぜか信じられるようになったのである。それなのに、人のことは説得力あることばをもって伝道しようとしてしまう愚かさ・・・。御霊と御力の現れることを期待して十字架のことばを宣べ伝えて行こう。 

福島原発事故の前と後

 南相馬市市立総合病院からのデータだそうです。FBで見つけました。チェルノブイリ原発事故の前後のベラルーシでの統計でも同じようなものを見た記憶があります。ちなみに、平成22年とは2010年、平成29年とは2017年。2011年が大地震と福島第一原で「爆発的事象」が生じメルトダウンメルトスルー的事象が起きた年でした。

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N.T.ライト 玉石混淆

  近年、「日本の」福音派の中でN.T.ライトのブームとなり、本が次々に訳されている。しかし、弊害もあるようで、ある友人に聞いたのだが、ライトの読者である若い伝道者の内には、「ライトを読んで『イエス様の十字架はあなたの罪にためでした。』と語れなくなった」という声も聞くというから、心配である。そこで、ここに少々メモしておきたい。

 彼の聖書理解は玉石混淆であると見えるから、玉と石を識別する必要がある。どんな著者であれ人間である以上、完璧なわけがない。その書物に取るべきところがあれば取り、捨てるべき怪しげなところは捨てるのはあたりまえのことである。

 ところで、ライトは、聖公会英国国教会)の主教である。聖公会は、昔からローマ教会とプロテスタントの中道via mediaを標ぼうしている、もともとハイブリッドなのだ。

 

1.ライトのキリスト観には自由主義神学の影響

 キリストのからだのよみがえりも、キリストの再臨も信じているライトは合理主義に染まった神学者ではない。超自然主義の信仰を持つキリスト者である。では、彼の教えが合理主義ないし自由主義神学の影響を受けていないかというと、そうでもない。そこがややこしい。中道なのだ。

 

(1)ライトの説

 ライトはイエスは徐々に自分がキリストであるという自覚を深めていったということを書いている。シュヴァイツァー『イエス小伝』にこうしたイエスの意識の変化といった記述があって、自由主義神学の人々がいかにも言いそうなことである。明治の終わりに書かれた波多野精一『基督教の起源』の第二章「イエス」は「思想史的観点から」イエスのことを説いている名品だが、その意味は「神の超自然的直接的介入がないことを前提としての観点」という意味である。

 自由主義神学の聖書学者の認識の枠組みは、理神論者の世界観と同じである。つまり、現象界・歴史に神の超自然的介入はないという前提で聖書を読むのである。したがって、物事は自然的過程で徐々に成っていったと見る。創造も徐々に自然的過程で生じたし、イエスのキリストとしての自覚も徐々に自然的過程で生じたという考えである。そういう前提で行われるリベラルな聖書学の土俵に上がって物を考えるうちに、ライトはその影響を受けたのであろう。自由主義保守主義の中道なのだ。

 

(2)評価
 しかし、ルカ福音書を読めば、イエスは12歳のとき、すでに神の御子としての意識を持っていたことはあきらかだし、マルコ福音書2章を見れば、ガリラヤ宣教をスタートした当初からご自分がイザヤの預言したメシヤ、ダニエルが預言した「人の子」であることを自覚していたし、また、ご自分が罪をゆるす神的権威をもつものであることを認識していたことも明らかである。少年期のイエスの記事も、ガリラヤ宣教の始まりのころの記事も神の言葉であると受け入れている者にとっては、イエスが徐々にメシヤ意識に目覚めて行ったというふうな言説は受け入れられない。

 

2.ライトの終末論は可と不可

(1)ライトの説

 ライトは、本筋としての聖書の世界終末論は、キリストが再臨し、そのとき信徒は再臨の主を出迎えに行き、また、地に戻ってきて、地をみこころに従って治めるという。地に戻るのであるから、今の世において私たちは主の前に責任的に生きるべきであるという。そして、今の世界と再臨のキリストがもたらされる世界の連続性をライトはしきりに強調する。

 ライトが反論したい相手はふたつある。一つは、死んだら肉体を離れて天国に行くというのは、ギリシャ的な霊肉二元論から出ているという教えである。もう一つは、主が再臨したら、聖徒は主のもとに携え挙げられて以後ずっと天にいるのだから地上のことはどうでもよいというディスペンセーション主義の携挙である。

(2)評価

 本筋としての聖書の世界終末論は、キリストが再臨し、そのとき信徒は再臨の主を出迎えに行き、また、地に戻ってきて、地をみこころに従って治めるというのはその通りである。再臨の主に「会う」というテサロニケの手紙第一4:17のことばapantesisは、たしかに「出迎える」という意味をもつことばであって、福音書で花婿を出迎える侍女たちの箇所(マタイ25:1,6)と、使徒の働きの末尾(使徒28:15)でローマ教会の人々がパウロを出迎える箇所とで用いられている。また、出迎えて地に戻ってくると理解すると、黙示録の終わりで花嫁のように整えられたエルサレムが天から下りてくるという記事とも調和する。これは玉である。

 もっとも、この「出迎え」説はライトのオリジナルではない。G.E.Laddが『終末論』にすでに書いているし、昔からあるグリムandセイヤーの辞書を見ればその連関はわかる。だが、気づきにくい所。これは「玉」である。こちら↓参照。
 https://biblehub.com/thayers/529.htm

 だが、「死んだら肉体を離れて天国に行く」ということも、ピリピ書1章20-26節あたりでたしかにパウロが言っていることである。これを伝統的神学では「中間状態」と呼んできた。つまり主が再臨して最後の審判が行われるまで、聖徒の霊は主のみもとにあるということである。聖書は神のことばであると信じる者は、これをギリシャ的だといって否定し去るべきではない。ライトは否定はしないが、ほとんど無視している感じである。この態度は、石。

 また、今の世の次の世との連続性をライトは言い過ぎであろう。黙示録20:21「地と天は逃げ去って、あとかたもなくなった。」という記述にせよ、ペテロの手紙第二の3:12記述にせよ、今の世の滅びと次の世の新しさを強調していることは明白である。キリストの復活のからだが、キリストが十字架にかかったからだであったことは事実だが、新しくなっていて非連続であったのと同じく、今の世と次の世は連続性はあろうが、福音書では非連続的であることが相当に強調されている。

 

3.ライトの福音理解―贖罪観と義認論

 これは紛らわしいので注意して読んでいただきたい。

(1)ライトは、贖いについては王の勝利(古典)説である 

 ライトは、罪を処理して神と人類との契約関係を守るために、イエスは死と復活によって罪を処理したという。このイエスを神は義と認めた。そして代表であるイエスの共同体に属する者たちも、義と認められるという。一見したところ、彼は代償的贖罪を教えているようだが、実はそうではない。ポイントは「代表representative」という言葉である。彼は、代理・身代わりsubstituteということばを用いないのである。ときに用いても好まない。

  彼のいう「罪」というのは信徒一人一人の罪ということでなく、むしろなにか悪魔、サタンと置き換えられるような悪しき力である。悪魔にキリストが勝利したから、キリストに属する民も悪魔に勝利するというのである。ライトにおいては、個人個人が自分の罪を神の前に認め悔い改めて、キリストが私の罪のために死んでくださったと感謝するという代償的贖罪・刑罰代理penal substitutionに基づく信仰義認はない。

 

(2)ライトによれば、義認とは最後の審判におけるキリストの契約の民としての認定を意味する

 ライトによれば「義認」は、もともと「法廷において裁判官である王が被告を無罪と宣告すること」を意味したが、1世紀のユダヤ教では「終わりの日、神がイスラエルをご自分の民と認定すること」を意味するようになっていたとする。そして、パウロユダヤ教徒だったから、ガラテヤ書やローマ書では、そういう意味で「義認」ということばを使っているはずだと主張する。対悪魔勝利説との関連でいえば、最後の審判の日、死と復活をもって悪魔を征服した代表者王キリストの契約の民として認められ復活することが、義認だというのである。

  

(3)評価

a.聖書は代償的贖罪と罪(悪魔)からの解放の両面を教える

  ローマ書1章から5章11節までは、個々の罪人が、キリストの宥めのささげ物(ローマ3:25)を根拠として、キリストを信じる者が、神の法廷において義と宣言されることを教えている。またそのことによって神の義が現わされたという。つまりキリストの代償的贖罪を根拠として、この世にあってキリストを信じた人が信仰によって義と宣告されるということである。

 次に、ローマ書5章12節から8章にかけては「罪(悪魔)」に対して死と復活をもって勝利した代表者キリストに属する者たち、神の子どもとして生きることが教えられている。

 ローマ書だけでなく、新約聖書全体がキリストによる救いには、この二面があることを教えている。へブル書は、キリストは大祭司として「多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげ」、その血をもって「私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ」ると教えている(ヘブル9:14)。同時に、もう一方で、ヘブル書はキリストはご自分の死をもって悪魔を滅ぼして、我々を解放したとも教えている。

 ヨハネ黙示録の、神とともに王座に着くキリストは、屠られた小羊(黙示5:6)、つまり、祭司として代理に刑罰を受け、王として悪魔に勝利して復活したお方である。

 つまり、聖書は代償的贖罪を根拠とする義認と、悪魔から解放しキリストの支配に移されること、これら二面を救いとして述べているが、ライトは後者の観点で前者を無理に読み込もうとしているところに無理がある。これはあきまへん。ライトに先立つサンダースは、ローマ書解釈にあたって、代償的贖罪を根拠とする義認と、「罪」(悪魔)から解放しキリストに参与させるという2つの面があることを認めている点で正確である。前者(代償的贖罪と義認)はパウロの非核心的部分であり、後者(キリストへの参与)がパウロの核心部分だと主張しているのは、サンダースの勝手な主張で、いただけない。

 宗教改革者たちは、祭司として罪の償いをし、王としてサタンから我々を奪回したキリストによる贖いの両面を把握していた。ルターはこの上なく明瞭に代償的贖罪(刑罰代理)を説いたが、同時に、悪魔に対する万軍の主なるイエスについて「神はわがやぐら」で歌い上げた。カルヴァンもその信仰問答で、両面を述べている。『ジュネーブ教会信仰問答』「問答73 三日目によみがえられたことであります。このことにおいて、彼は死と罪との勝利者として御自らを表されました。なぜならば、そのよみがえりによって、彼は死を滅ぼし、悪魔の鎖を断ち切って、その力をことごとく打ち砕かれたからであります。ハイデルベルク信仰問答も同様である。

 私たちは、新約聖書に明示され宗教改革者たちも正確に捉えた、①代償的贖罪と②悪魔から解放しキリストの支配に移されること という二つの面のうちの①だけを強調し、②を十分に理解できないできたのではなかろうか。ライトは、②によって無理やり①までも読もうとして混乱し、読者も混乱させられているが、②の面を私たちに思い起こさせたという限りでは意味あるものである。

 

b.義認という用語

 ライトは、最後の審判において神が、ご自分の民を認定することを「義認」だといい、今の世における義認を予告的なものだというのだが、これはパウロがローマ書5章1-11節での「義認」の用語法と矛盾している。

 パウロは、5章1節でキリスト者はイエスを信じたとき信仰によって義と認められた(過去)ので、現在、神との平和を持っているとし、それゆえ未来に関しては、9,10節で「神の怒りから救われる」と述べている。つまり、パウロは義認は今の世におけることを意味する語であり、最後の審判における宣告については「神の怒りから救われる」と表現するのである。これを義認とは言わないのだ。

 ライトは従来の義認理解が、1世紀のパウロの言わんとした義認とは違っていると主張するのだが、ライトの方が間違えているのである。

 

4 その他、教派の流れについての感想

 ライトは英国国教会聖公会)の主教である。その背景を勘案して、彼の主張を理解する必要があるだろう。英国国教会宗教改革を経験したことがなく、歴史的にはピューリタンイングランドにおける改革派信仰者)を弾圧していた教会であるから、信仰義認論と恩寵救済主義はもともとなじまない。ライトが、ある改革派系の神学校での講演で、自分は(ピューリタニズムの産物である)ウェストミンスター基準を知らないとか、契約神学を知っていたら自分の物語神学は必要なかったと言ったと伝え聞いたことがあるが、それはあながち謙遜やリップサービスではないのかもしれない。

 実際、宗教改革の伝統の中で契約神学や世界観としてのキリスト教をもともと持っていた改革派系の神学を学んだ人々の多くは、義認論がなんだか妙だなということ以外、ライトにはほとんど新鮮味を感じないようである。だが、宗教改革の遺産にほとんど関心を持ったことがなく、聖書のみ、十字架の福音のみを標ぼうしつつ実は不十分さを感じていた敬虔主義ないしリバイバリズムのアルミニウス主義の流れの中にいた人々には、とても新鮮味があるようである。宿敵(?)であった改革派神学の軍門に下らないでも、世界観としてのキリスト教や契約の観点を得ることが出来そうに見えるからである。ただし、ライトの新味は、改革派神学が創造論的に世界観としてのキリスト教を提供したのに対して、終末論的にそれを試みているところにある。

 従来改革派神学が世界観としてのキリスト教や契約神学というものを持ちながら、改革派圏内でしか知られず他派への広がりを持ちえなかったのは、残念ながら、アルミニウス派と改革派が長年にわたって没交渉的であったからであろう。近代になって自由主義という共通の論敵を持つようになったので、互いにさすがに異端呼ばわりしなくなったけれども、では相手の立場の神学を謙虚に学んで来たか、相手にもわかるように聖書まで戻って表現してきたかというと、そうではなかったろう。ライトは教義学者としてでなく、聖書学者として世界観としてのキリスト教や聖書における契約理解の重要性を説いたので、アルミニウス主義の流れの人々も近づきやすかったのであろう。改革派神学の人々に申し上げたいのは、改革派サークル内の権威ある神学者がこう言っているということでとどめないで、聖書まで戻って話をするこのとたいせつさということである。聖書まで戻れば、広く対話ができるのである。

 ライトが国教会の主教という立場にあることから推測すれば、クリスマスとイースターと葬式にしか教会に来ないような信徒たちに対して、個人主義はダメだよ。キリストを信じ義とされるというのはキリストの契約共同体のメンバーとなることなんだと教えたい。「イエス様信じたら死んでも天国」という安易な考えではだめだ。クリスチャンとして今の世でもしっかり生きる任務があるんだと言いたいのであろう。そういうことには牧師として共感をおぼえる。それが彼の著書に見え隠れする気がする。

 

歩けば健康

 毎日5000歩あるけば認知症発症率は7分の1になり、毎日7000歩あるけば骨粗しょう症発症率は6分の1になり、毎日4000歩あるけば鬱発症率は3分の1になり、毎日8000歩あるけば、高血圧の発症率は6分の1になるそうです。 群馬県中之条町で15年間にわたる5000人の住民調査の結果わかったことだそうです。けさ、たまたまネット上で見た何かの番組で言っていました。
認知症は脳の血流不足が一因だそうです。骨粗しょう症は、カルシウムを骨に定着させる骨芽細胞が不足して起こるそうで、骨芽細胞は血流が悪いとあまりでないとのこと。うつ病ではセロトニン不足で起こりますが、セロトニンは朝の屋外歩行で出てくるそうです。
 思い出したのが、プラトンの逍遥学派です。やっぱり歩きながらだと、足裏のつぼも刺激されるし、脳の血流もよくなるんでしょうね。主イエスも弟子たちと徒歩で旅をしながら教えましたねえ。
 
追記>
 高齢者はあまり無理ある歩き方をしないようにという助言も見つかりました。読んでみると、どうやら、体をねじらない、ナンバ歩き(二軸歩き)がいいようですね。右手・右足、左手左足をいっしょに出す歩き方です。これは和服が乱れないための、昔の日本人の歩き方と言われています。たしかに明治以降の西洋風の歩き方では、からだがねじれますから着物の前が乱れてしまいます。
https://president.jp/articles/-/26129