苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

君主制と民主制は対立概念ではありません

 しばしば誤解されるように、君主制と民主制は対立概念ではありません。君主制の対立概念は、大統領や主席を立てる共和制です。「民主的」ということばをもし「国民の人間の尊厳を大切にする」という意味でもちいるとすれば、君主制には民主的でない専制君主制と、民主的な立憲君主制があり、共和制には非民主的な専制的な共和制と、民主的な共和制があるのです。つまり、しばしば誤解されるように、君主制だからといって専制的とはかぎらないし、共和制だからといって民主的とは限らないのです。たとえば英国やベルギーは民主的な君主制ですし、また、朝鮮民主主義人民共和国専制的共和制です。
 それで、言いたいことは、天皇制を打倒すれば、自動的に民主的な世の中になるとはかぎらないということです。下手をすると、専制共和制になることだって大いにありうることです。
 国民の統合には権威が必要ですが、君主制における権威は伝統的価値に依存しています。「王は昔から続いているから、なんとなくありがたい」わけです。共和制における権威は、選挙によって選ばれた人であるとか、王を倒した実力者だといった事実に依存しています。ですから、安定感や穏やかさということからいえば、どちらかといえば君主制のほうがすぐれています。
 一夫一婦制の今日では、日本の皇統はいずれ絶えるでしょう。ヨーロッパでは、王族は他国から王子様とかお姫様を迎えて維持しています。日本ではどうするつもりでしょう。ずっと昔のことを言えば、桓武天皇のお母さんは百済のお姫様だったそうです。また、明治時代に、ハワイ王国のカイウラニ王女様を迎える可能性があったそうですが、立ち消えになったそうです。私なんかは、ネパール王国とかトンガ王国とか、あるいはヨーロッパの王室の中で日本好きのお姫様や王子様を迎えたら、風通しの良い皇室になると思うんですがね。

悲しみと喜び

 ずいぶん前に、たしか植物学に通じた加藤正義という方の文章で、故安藤仲市牧師にかんする印象深い思い出を読んだことがあります。ある日の午後、加藤さんが後ろに二人の子どもを乗せて世田谷で車を走らせていたら、子どもが「あ、安藤先生だ!」と叫んだそうです。仲市牧師は歩道をあの大きなからだで歩いていたのです。そして、一人が「安藤先生、とっても悲しそうな顔をしていたよ。」というと、もう一人は「ちがうよ。とっても嬉しそうな顔をしていたよ。」というのです。そして二人は「いや悲しそうだった」「嬉しそうだった」と、決して譲らなかった、というのです。

 不思議な話ですが、仲市先生を思い出すと、分かるような気がします。使徒パウロもこう言っています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリストイエスにあって、神があなたがたに望んでおられることです。」2テサロニケ5:16-18

「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」ローマ9:1-3

 

 

 

摂理は神の料理

今日、北海道聖書学院のチャペルで「神の摂理は料理である」ということを教わりました。素材や調味料それぞれはおいしくないけれども、それらが良いタイミングで組み合わせられて、すばらしい料理ができる。!!でした。

これは絶妙の譬えですね。

N.T.ライトの是と非

 このところ、N.T.ライトの本が何冊も翻訳出版されています。なるほどという点と、おかしいんじゃないのという点の両方がまじりあっているので、私なりに整理しておきます。

 まず、「福音とは『キリストは王である』という宣言である」というのは、たしかに福音書の記述にかなっていますから、OKです。王なるキリストのもとで、臣民として生きることが、人としての至福であるということです。

 主が再臨したら、携挙されてあっちへ行ったきりでなく「出迎えて」地に戻ってくるというのもOKです。ただし、その地は新しくされた地です。セイヤーの辞書を見れば再臨の主と「会う」と訳されているapantesisは、マタイ25章の「花婿を出迎えよ」と、使徒末尾のローマの兄弟姉妹がパウロを出迎える場面でも用いられている語です。

 もう一つ大事なOKは、今の世は予行演習で次の世が本番なのだから、今の世を責任をもって生きていこうということ。これは大事な指摘です。私たちは新しくされた被造物の相続人となるというのは、大事なことです。

 つぎに、ライトのいただけないところは、一つはイエスが徐々にキリスト意識に目覚めていったのだというのは、福音書の中に根拠がありません。イエスは12歳のときの発言をみてもすでに神の御子としての意識があったし、ガリラヤ宣教の最初から自分は神的権威をもつメシヤであることを自覚していたことは、福音書を読めば明白です。ライトは、このあたり、リベラルな聖書学の影響を受けたために、聖書を読み違えています。

 もうひとつ、いただけないのは、義認の理解。彼のいわゆる1世紀のユダヤ教(第二神殿期のユダヤ教)の色眼鏡の色が強すぎる解釈で、パウロを読み違えていると見ています。この件については、今度、「福音主義神学」という学会誌に載せる予定です。

旭川再訪

 昨日、宣教報告に来てくださった斎藤五十三宣教師といっしょに、今日は旭川にやってきました。私にとっては二度目の訪問です。三浦綾子記念文学館、そして、塩狩峠をゆっくりと訪ねました。旭山動物園は省略。
 私は高校三年生のときに、ひょんなことで映画「塩狩峠」を見て、それがキリストの愛を初めて知ったときでした。大学に入ってから、三浦さんの本はほとんど読みました。塩狩峠は、そういう意味で私にとっての原点のような場所です。塩狩峠に移築された三浦夫妻の雑貨屋を営んだ旧宅にいた方が、『塩狩峠を訪ねるのは圧倒的に男性が多いんです。」と話していました。

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スペシャル楽しい5日間

 本日は、朝礼拝で菊池先生の説教、午後は昼食のあと、聖書考古学のお話。HBIの集中講義から数えると14コマも話されたことになります。マラソンを完走という感じ。お疲れさまでした。すべて終わって一息ついて、苫小牧の港にお連れして海を見ながら散歩しました。大きな船がきらきら公園の波止場に横付けされてました。震災支援のための自衛隊の車両を運んできたフェリーでした。今日は岸壁に小鯖を釣る人たちが結構いました。そのあと、ニングルでラーメン。やっぱり旅人は北海道に来たらラーメンを食べたいみたいですねえ。菊池先生は味噌とんこつで、私は野菜ラーメン。

 楽しくスペシャルなここの5日間でした。

 そういえば、私も数年前マラソン講義をしたことがありました。ブログを振り返ったら2009年10月のことです。あのときは、HBIで集中講義をし、北栄教会でご奉仕でした。娘といっしょで北大や小樽にも出かけたのでした。
http://koumichristchurch.hatenablog.jp/entry/20091024/p1

菊池実先生を迎えて

 9月12,13,14日、北海道聖書学院では菊池先生を迎えてのHBI聖書の地考古学講義でした。実に興味深い学びでした。
 そのあと、先生を羊ケ丘公園展望台に連れて行きました。あの広々とした眺めはたしかに北海道ならではですからね。お決まりのクラークポーズでカメラをパチリ。

 次は、山の中の道を通って苫小牧に行く途上、絶景の支笏湖の丸駒温泉でひと風呂浴びました。これまた感激してくださいました。
 陽が落ちてチェックインしたあと、うちに連れてきて、北海道の魚をいろいろ食べてもらいました。
 楽しい一日でした。