「それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。」
ヨハネ福音書20章10,11節
復活の主イエスが、最初に御自分を顕わされたのは、特選の弟子たちに対してではなく、マリヤに対してだった。復活後の記事は錯綜していて前後関係の理解にむずかしいところがあるが、本来、主イエスは弟子たちにガリラヤで会おうというお積もりであり、御使いにそのことを伝言させていらっしゃる。だとすると、なぜ主イエスはマリヤに現れたのか。主イエスは、墓のそばを離れず、いつまでも涙に暮れる彼女を放っておくことがおできにならなかったから・・だろう。
<追記>
主イエスは愛のために自由に行動される。神学者たちが論じてきた「聖定」などものともせずに・・・などという言い方は、軽率なのかもしれないが、主イエスの優しさ、大胆さ、自由さには、驚かされ、そして胸がすくような思いがする。