苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ナルドの香油

マルコ14章1−16節、民数記34−36章

 「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女を厳しく責めた。
 するとイエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」(4,5節)

 ベタニヤのマリヤがナルドの香油を主イエスに惜しげもなく注いだとき、イスカリオテ・ユダが最初に、そして他の弟子たちはその尻馬に乗って、彼女を責めた。弟子たちのいうことは、もっともらしい。主の前に点数をかせげると思ったのだろう。だが、主イエスのことばは意外だった。思うこと。
 ひとつは何でも換金して考える癖が付くと、一番大事なことが見えなくなるということ。 もうひとつは、時、カイロス、タイミングが大事ということ。
 それにしても、マリヤはどうして主イエスの埋葬の用意として、この香油をささげられたのだろう。主のみそば近くにいた弟子たちは、エルサレムに入って多忙で浮き足立って自分たちの出世などを夢見ていたからわからなかったのだろう。だが、マリヤはゴルゴタを目前に控えている主イエスのうちの深い悲しみを感じ取ることができた。彼女の主への愛が純粋なものだったからだろう。ささげられたナルドの香油のように。
 忙しさにかまけて、もっともたいせつな人の気持ちに気づかなくなる鈍感さを深く反省する。