苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

土と水と空気と            通信小海212号より

 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」創世記二:十五―十七

文化命令
 神は私たち人間に、この世界を委ねてくださった。それはこの美しい園を破壊し、好き勝手にむさぼるためではなく、「耕させ、守ら」せるためである。「耕す」と訳されていることばabadは「世話をする」とも訳せる。畑の世話をし、森林の世話をし、海の世話をして、産物を受け取ることである。
「守る」ということは、私たちはこの土と水と空気を利用してよいが、これを破壊するのではなくて、これを保全しなさいということを意味している。木を切って家を造ってよいが、山にはまた木の苗を植えておくことである。水を用いてよいのだが、汚した水は浄化して戻しなさいということである。大地を耕して産物を得ることは、神の文化命令への応答であるが、土を利用するばかりでなく、その土は定期的に休ませなければならない。「七年目は、地のまったき休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたは畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしてはならない。」(レビ記二:五)
謙遜に
 神は「文化命令」にともなって、「善悪の知識の木からだけは取って食べてはならない」という制限をお与えになった。これは何を意味するのだろうか?
 それは人間がして善いこと悪いことは、人間が自分勝手に決める権限はなく、神がお定めになるのだということを意味している。たしかに神は人間に管理者として、この世界をおゆだねになったが、何でも好き勝手にしてよいとされたわけではない。
別荘の管理人は、雇い主である別荘の所有者の意向にしたがって、それを管理しなくてはなるまい。自分勝手に別荘を改造したり、壊したりしたらクビにされてしまう。神がこの世界の所有者であり、人は神からこの世界を委ねられた管理者であるから、神の意向に沿うように、この世界を管理する責任がある。私たちは、あくまでも自分は管理人であって所有者ではないことをわきまえる謙虚さが必要である。

汚してしまった土と水と空気
 それにつけ、原発に頼ってきたことの過ちを思わないではいられない。私たちは、福島原発の事故で、空気と水と海と土とを汚してしまった。これまでに汚染土壌は四千万立方m(東京ドーム32.2杯分)、汚染ヘドロ百二十万トン(25mプール1477杯分)、汚染水は、三千トン(25mプール6.2杯)汚泥千五百トンに達しており、もって行き場もなく、汚し続けている。管理人である私たちは神から託された空気を汚し、海を汚し、山々を汚し、水源地を汚し、田畑を放射能で汚してしまった。
 私たちは、神の前に、お詫びしなければならない。そして、管理人としての分際もわきまえず、自分は賢いと思いあがって、消すこともできない原子力の火を用いていた傲慢を悔い改めなければならない。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言十八:十三)
「人はお金がなくても、土と水と空気さえあれば生きて行けます。どんなにお金があっても、それだけでは生きて行けません。私たちの命をささえるのは、この大地と水と空気です。」と原発の町から避難した農家の女性が言っていた。



娘と千曲川にかかる、近所の小さなつり橋を渡って来ました。
こちらもどーぞ⇒http://www.youtube.com/watch?v=7KQyiz6WmsY