創世記2章5節
神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。(新改訳)
主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。(口語訳)
ヱホバ神其人を挈て彼をエデンの園に置き之を埋め之を守らしめ給へり (文語訳)
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。(新共同訳)
訳語でいちばんびっくりしたのは、文語訳。アーバードが「埋め」と訳されている。神様がアダムをエデンの園に生き埋めにしてどうするんだ?と思ったが、これは「理め(おさめ)」の誤植だった。私は、「日本語の聖書」というサイトを使わせていただいているが、誤植に気づいたのは今回が初めて。「理める」という用字は、管理するという意味だろう。
アーバードというのは、普通には「働く」「仕える」などと訳されることばで、そこからエベドつまりしもべということばが派生している。面白いのはキングジェームズ訳で、dressという訳語が用いられている。17世紀の英語はわからないけれど、「装わせ」ということなのだろうか?
「耕す」という用語は、そのときは土を相手にしていたのだから間違いではないのだが、主がアダムに託された務めは農耕のみでなく、エデンの園のあらゆる面における管理であっただろう。だとすると、ここは「耕す」という農耕という狭い意味に限定してしまった訳語を採用したのは、いかがなものだろうか?むしろ、「理め(おさめ)」という訳語のほうが適切だったかもしれない。「その世話をし」とか、「そのために働き」というふうに訳してはどうだろうか。そのほうが、農業だけでなく、労働と文化的営み全般について大事なことを示唆していると理解の幅が広がるだろう。
この箇所は改革派神学では、文化命令と呼ばれるたいへん重要な箇所なのである。創世記2章15節を思いめぐらしているときりがなく、ものを書けば一冊の本になってしまうような箇所である。
<追記>fb友から教えられたこと。「園」ガンは男性名詞で、「そこを耕す(働く)」の「そこを」はアーで女性代名詞なので、園を目的としているのではないことになる。アダマーつまり土(女性)を目的語としていると考えるべきだということになる。
とすると、やはりこの箇所は第一義的には農業を意味するととるべきだということ。