注:この原稿は東京基督神学校紀要『基督神学』第十二号(二○○○年三月)に掲載された。
目次
1.神は人を土から創造し、土地を耕させた。
(1)人、偉大にして卑小なる存在
(2)人の任務、「耕し、守る」
(3)食べること2.人の罪ゆえに土地は呪われ、人は土地に呪われる
(1)人と土地は敵対関係に・・・・創世記三章
(2)都市文明・・土地に疎外され土地を疎外する・・・・創世記四章3.二十一世紀の食と農:それでは、いかに生きるべきか?
(1)全被造物の贖いのビジョン
(1)近代農法の問題性
(2)遺伝子組み換え作物の問題性
(3)「耕し、守る」農業を
(4)人本来の食の原則結びに代えて:神学教育と農業
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」創世記二:七
六年前から筆者は信州南佐久郡の山里で伝道に携わることになった。農村で日本の農業の困難な現状を知り、自らも小さな畑を耕すうち、思いがけなくも、農業という窓から我々が近い将来確実に直面することになる人口爆発・食糧危機・環境破壊の危機について視界が開け、この視点からみことばを思い巡らすようになった。
本稿で筆者は、第一章で「神と土と人」との本来的関係を、第二章ではその本来性にどのような亀裂が入ったかをあきらかにし、特に都市と文明の問題性について論じたい。そして第三章では、前二章であきらかにされたことを適用して二十一世紀に人類が直面する問題に対する解決のヒントを探りたいと思う。事実上、第三章が結章となる。
本稿はおそらく専門家の「神学論文」の枠をはみでた内容となるだろう。ご容赦いただきたい。
1.神は人を土から創造し土地を耕させた
(1)人。偉大にして卑小なる存在
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」創世記二:七
我々はこのみことばから、人の尊厳と人の卑小とをあわせて読み取り、それを自覚すべきである。すなわち、人は神の息を吹き込まれた存在であるゆえに偉大なものであり、かつ、人は土地のちりを材料として造られたものであるゆえに卑小なものである。周知のごとく、人はアダマー(土)から造られたゆえに、アダムと呼ばれる。アダムは、土から形造られたものであるゆえに他の土からの被造物たちの一員であることをわきまえ、かつ、神の息を吹き込まれ「神のかたち」に創造されたゆえに神の代理者として地を支配する任にあずかっていることをわきまえるべきであった(創世記一:二六参照)。
これら二側面ある人間の片面のみを知ることは有害である。事実、近代西洋の思想史を見れば、十八世紀のフランスの唯物論者オルバック、『人間機械論』を書いたラ・メトリ、感覚論者コンディヤックにエルヴェシウス、そして、ついに神を人類の敵と呼んだマルキ・ド・サドたちは、人は単なる土から造られた禽獣ないし機械であると主張して、倫理的帰結として禽獣的道徳観に陥った。他方、人間のたましいの偉大のみを語った者たちは、自ら神と思い上がることになる。十九世紀のドイツ・ロマン主義時代の観念論者フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらは、晩年のハイネが指摘するように「絶対的なものは存在と知識との合一のうちにある。人間は認識を通じて神となる。あるいはこれとまったくおなじことだが、神は人間において神自身を自覚する」と「善悪の知識の木から食べれば、人は神のようになる」と言った蛇のことばそのままに汎神論に陥った(1)。
しかし、人間の神に似せられたゆえの尊厳と土から造られたという卑小の両面を知ることは有益である。神は「みことばの受肉」と「からだのよみがえり」という啓示を歴史のうちに行なわれることによって、神は単に精神のみならず物質(肉体)をも贖い給うことを示された。フランシス・シェーファーはキリストの受肉と復活が環境破壊問題に形而上学的に根本的な土台を与えていると指摘している(2)。
「人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣にひとしいかということばかり知らせるのは危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険である。しかし、人間にその両方を示してやるのは、きわめて有益である。人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべきである。」(パスカル『パンセ』L121,B418)
(2)人の任務「地を耕し、守る」
神が人間に与えた任務はなにか。創世記一章は「地を支配せよ」「地を従えよ」とある。しばしば、この部分を引用して、<人間が神のかたちに創造された特殊な存在であるという思想が、自然環境の破壊をもたらした。したがって、人間が単に自然の一部であるという東洋的汎神論的思想に立ち返ることが、この地球の危機の時代には必要なのである。>と言った素朴な主張が流行している。哲学者梅原猛氏はその典型である。
けれども、こうした主張はあまりに素朴で、非現実的、幻想的にすぎる。そもそも、こうした主張をする人自身、紙とインクを使い、車を使い、電気を使い、テレビやラジオ放送を使って、こうした主張をせざるをえない。人間という存在は自然の一部ではなく、自然の一部でありながら、同時に、自然の外にあって自然に働きかける特殊な存在なのである。人間は、自然に働きかけて、自然のうちにないものを作り出してしまうものなのである。それは人間が人間であるかぎり捨て去ることのできない属性なのであるから、その現実を踏まえて、自然への働きかけ方、その姿勢を改めることこそ重要なのではなかろうか。
創世記一章の「地を支配せよ」「地を従えよ」ということばは、悪しき専制君主としての大地の支配・収奪を意味していなかった。というのは、悪しき専制君主は堕落後の人間世界に出現したものだからである。ここには本来的な神のしもべとしての君主の支配が語られているのである。それは、創世記第二章十五節からあきらかである。「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」
人が地を「支配し、従える」ことの内容とは、園を「耕し、守る」ことであった。ヘブライ語において「耕す(アバド)」と「しもべ(エベド)」が同根の語であることは興味深い。「耕す」を「仕える」とうがって訳してみれば、「地に仕える」ことが人の大地支配の内容である。日本語の語感からいえば「畑の世話をする」というあのことばに当たろう。
それを裏書きするように、創世記二章五節は言う。「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。」注目したいのは、「からである(キー)」である。この文章を原因と結果を倒置して、否定を肯定にして言い換えれば、つまり対偶をとれば、「神である主が地上に雨を降らせ、人が地を耕すゆえに、地は灌木や野の草を生やす。」ということになる。人は神の協力者として、地を世話することによって大地のうちに神が秘め給うた可能性を引き出すことが、すなわち「耕す」ことである。つまり「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マルコ10:42,43)と主が教えられた神の国の王のありかたこそ、本来の大地に対する人のありかたである。
なお、新共同訳は、人が耕さないから木も草も生えないというのは不適当と考えてであろうか、「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨を お送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。」と区切って訳してしまっているが、従来の訳のままがマソレテ本文に忠実である。
他方、「守る」ということばは、農業という産業には、単に作物を得ることだけでなく、環境保全という重要な役割があることを示唆するものとして読み取れるであろう。井上ひさし氏は農業と工業の本質を比較して、工業は周囲からいろいろなものを取り込んで製品とともに排気ガスや廃水をはじめとするゴミを出す環境破壊型産業であるのに対して、農業は周囲からいろいろなマイナスをプラスに転じうる産業であると指摘する(3)。
たとえば家畜の糞尿や生ゴミは堆肥化されれば、やがて作物となる。また、水田は豪雨をいったんためて置いてゆっくり川に流すというダムの役割を果たす。日本では水田が五百億トンのダムの役割を果たしているという。また、水田には地下水の涵養という働きもある。近年、豪雨があると都市部の河川――たとえば神田川――がいとも簡単に氾濫するようになり、あるいは地下水が枯渇しているのは、都市近郊の田園の宅地化が原因している。今後、コメの輸入自由化により中山間地の水田が破壊されていくにしたがって、河川下流域の洪水が慢性化することは必然である。また、農業は景観の保護という役割もある。
このように、「耕し、守る」農業には食糧生産のみならず環境保全の機能があるのである。ただし、これは後述するが、工業化された近代化学農法が環境破壊をもたらしていることも事実である。しかし、本来的に農業は工業とちがって、食糧生産のみならず環境保護を同時に行なうことのできる産業なのである。そういう意味で、創世記が神が人間に最初に与えた仕事が「耕し、守る」農業であったと啓示しているのは、意義深いことではなかろうか。ここには人間の自然に対する基本的な働きかけのありかたの原理が示されているのである。
(3)食べること
地を耕し、地を守ることと関連して命じられるのは、食についての祝福と制約である。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記二:十六、十七)
何を食べてよいかについての聖書的な原則は、神が許し給うものを食べるということである。創世記第一章、第二章の記述からすると、神が人に許した食物は「種をもつすべての草と、種をもって実を結ぶすべての木」であった。動物には「すべての緑の草」であった。周知のごとく、人に対して食事に肉食が公式に許可されたのは、ノアの大洪水の後のことである(創世記九:二)。おそらく自然環境が激変し、植物のみでは栄養を十分に取ることが困難な状況になったことと関連しているのであろう。
旧約の律法においては食べ物にさまざまな制約があったが、新約には世界のいろいろな食文化を背景とする人々への福音の拡大の時代が訪れて、制約は原則として撤廃された。しかし、聖書はイザヤが見た終末における御国の完成のビジョンのなかに、穀物菜食を理想としてかかげている。「雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。」(イザヤ十一:七)終末の完成された御国とは、エデンの園の回復であるばかりか、さらにエデンの園の栄光化された姿であることからすれば、そこで穀物菜食が回復されることは予想されることではある。ただし、一点、この推論に関して疑念が残るのは、復活の主イエス−つまり終末的完成態の主イエス−が、からだをもって復活されたことを証明するために、弟子たちの目のまえで焼き魚を食べて見せられたという事件である。
2.人の罪ゆえに、土地は呪われ、人は土地に呪われる
(1)人と土地は敵対関係に・・・創世記第三章
人類は始祖アダムにあって、神の戒めに背き、その結果、神との関係、隣人との関係、そして大地との関係において不調和を来すことになった。創世記第三章から見れば、人はかつて信頼と畏怖の対象であった神を恐怖と憎悪の対象と見るようになり(十、十二節)、男はかつて愛と保護の対象であった妻に責任を転嫁したり(十二節)、暴君的に支配するようになり(十六節)、その妻はかつて信頼と自発的従順の相手であった夫を意のままにあやつることを望むようになった(十六節、三章七節)。
土地はどうなったか。「土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地はあなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」とあるように、かつて人の働きに従順に答えて豊かに実りを産した大地は、人の懸命の労働を徒労に終わらせようとするような性質を持つものとなってしまった。なお新約聖書の記述から見れば、ここでいう呪われた「土地」は、単に地面だけではなく、被造物全体を指していると見てよい(ローマ八:十八−二二)。
(2)都市文明・・土地に疎外され土地を疎外する・・・・創世記四章
アダムの子カインは、土地に弟アベルの血を流した。神は言われた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今は、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(創世記四:十−十二)
土地に呪われたカインは、主の御顔の前から去って、エデンの東にノデの地に住みつく。ノデという名は流浪という意味だという。流浪の地に住み着くというのは聖書一流のアイロニーである(4)。カインはそこに初めて町を建て、これにエノクという名を付けた。 さらにカインの一族から、最初の一夫多妻主義者にして傲慢な権力者レメクが生まれ、天幕に棲む者、家畜を飼う者、竪琴を奏する者、青銅と鉄の鍛冶屋が出てきたという。都市、権力、文明の華々しい原初の姿がここに記されている。エリュールがいうように、「都市の歴史がカインによって始まるということは、数多ある些末事のひとつとみなすべきではない(4)」のだ。これがアウグスティヌスが言う「この世の都」の始まりである。
創世記第四章末尾には、カイン一族の華々しい「この世の都」の繁栄と比較対照されるように、セツに始まるつつましい「神の都」の記述がある(5)。まことに主がおっしゃったように「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜け目がない」ものなのである。神は敬虔なアベルの死後、アダムに彼の代わりにセツをお与えになる。セツから生まれたエノシュの生まれた時から、「人々は主(YHWH)の御名によって祈り始め」、ノアに至る一族は神を畏れる敬虔な一族となった。
ちなみに「エノシュ」という名は、「アーナシュ」つまり「弱い、病気である」という語の派生語と見られ、普通名詞として「人」という意味に用いられる場合には人間の弱さや死ぬべき運命にある存在という意味を含む語として用いられる。たとえば神の御手のわざである星空を見上げたダビデの詩篇八編「人とはいったい何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」とあるように(6)。あるいはエノシュは、親がその子のために日夜涙かわく暇なく祈らないではいられぬほど病弱な子だったのかもしれない。神が祈りと認められる心の態度の第一は無力さであり、無力である人だけがほんとうに祈ることができるのであり、祈りは無力な人のためのものであると北欧の敬虔な神学者が言うように(7)、無力のなかでこそセツの一族は主の御名によって祈り始めたのであろう。神の 国は心の貧しい者たちのものなのであった。
以上、創世記第四章の記述において注目すべきことは、神を畏れる敬虔な一族は人間の無力の自覚と祈りをその特徴とし、神に背を向けた土地に呪われたカインの一族は「力への意志」をその特徴とし、都市と文明はこのカインの一族のうちに最初に現れたということである。創世記記者は文明・都市というものにつきまとう性質をこの記述のうちに暗示している。文明が神の御顔から去り、土地にのろわれた一族のうちから生じたというのは、彼らが神の代用品として都市文明を築いたということを示唆している。神から保護の約束をいただいてもなお神の保護を信じられなかったカインは、外敵を防ぐために城壁を築き、町を築いた。土地に呪われたカインは、かえって土を忌み嫌ってこれを石畳で覆い尽くした。神の慰めを持たずたましいのうちに天使の賛美を聞けぬカインの一族は自ら音楽をも工夫して、心の慰みとした。神の大盾を信じられぬカインの一族は青銅や鉄で武器を工夫して敵に備え、さらに侵略を企てた。
むろん、文明のもろもろの利器はカイン族のうちにとどまらず、セツの一族の用いるものともなって、そういう技術があったればこそ、ノアもあの巨大な箱舟を建造することができたであろう。また、後には神の民も楽器をもって神を賛美するようになるし、青銅器や鉄器も使うようになる。ゆえに、文明即背教と創世記は語っていない。しかし、それにもかかわらず創世記第四章は、都市と文明の発端について、背教的動機を語ることによって、我々に都市と文明を偶像化する危険に警戒を怠らぬように求めている。それは、バベルの塔の記事にも共通している。都市と文明はえてして、人を傲慢にして、人を背教へと走らせる。この事実は、近代都市文明が、どれほど人の心を神から遠ざけてきたかを見てもあきらかであろう。近年、都市文明のかつての栄光が曇りつつあるものの、なお現代人にとって都市文明は巨大な偶像であろう。
特に、「神と土と人」という主題から都市文明という問題を考えるとき、我々は都市文明が土を忌み嫌い、土を疎外している現実に目を留めたいと思う。都会人は、泥臭いことを忌み嫌う。泥臭いことは田舎じみたことであり、恥ずべきことと感じている。都市文明は土を忌み嫌い、土を石畳で、コンクリートで、アスファルトで覆い尽くしてしまう。家を出てから会社に着くまで、土の道を歩かずに済むことが都会人のあかしであるかのごとく誇りとしている。「職業に貴賤なし」と口先ではいいながら、内心、泥にまみれる仕事はできれば避けたい仕事であり、机に向かってペンを取り、キーボードを打つような仕事が高尚であると信じている。土に呪われ土から疎外され文明化された人間は、逆に、土を疎外することによって土に対して復讐を企てた。その象徴が都市である。
3.二十一世紀の食と農:それでは、いかに生きるべきか?
最後の章で筆者の図するところは、聖書における「神と土と人」との関連をあきらかにすることのみならず、これを現実の我々の生活のうちに適用する可能性を探ることにある。「あさはかに専門外のことにまで・・・」と非難を受けるとしても、アマチュアである筆者には蛙の面になんとやらである。蛙は、あえてここにいくつかのことがらを指摘して、聖書の語る真理が、二十一世紀を迎えようとする我々の課題に対してどういう光やヒントを与え得るのかを示唆しておきたいと思う。神学は井の中で満足すべきものではないと信じるからである。
主の再臨が延ばされて、もし二十一世紀があるとすれば、人類が直面する三つの問題は人口爆発と食糧危機と環境破壊である。国連の統計では二○二五年に世界人口は八十三億に達するという(8)。今年五月、世界人口はついに六十億を数えた。今、世界で十億人か ら十五億人は栄養不良ないし栄養失調である。世界人口が八十三億に達したならば、食糧生産量と消費傾向が現状のままであれば、世界の半分は飢餓に苦しまなければならないことになる。
(1)全被造物の贖いのヴィジョン
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8:18−22)
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」(2ペテロ3:13)
聖書に啓示された再臨のキリストが終局的にもたらす救済とは、人類の救済のみならず全被造物の救済である。そこには人口爆発・食糧危機・環境破壊といった問題はない。人間はキリストにあって新しいからだを受け、被造物のかしらアダムの堕落以来、虚無に服していた被造物は、栄光の状態に入れられる。イザヤは幻のうちに凶暴な「熊も獅子もわらを食らう」御国を見た。
今、我々が置かれているのは、キリストにある贖いが「すでに」なされたことを感謝し、「いまだ」訪れていないこの新天新地の完全成就に希望をおいて生きるという、二つの「時」の間である。ここにおいては、被造物の「産みの苦しみ」があり、我々もまた、産みの苦しみに参与すべきである。それが本来の「神と土と人」を回復することにほかならない。新天新地の訪れまで、それは完成しないであろうが、託されたタラントに応じてその任務を果たすなら、かの日には主に喜ばれより多くのものを任されるであろう。
(2)近代農法の問題性
二十一世紀、人類がかならず直面しなければならない問題は、人口爆発にともなう食糧危機と環境破壊である。そして、この二つの問題に同時に解決を与える可能性がある産業として農業があることを、我々は創世記から確信する。「地を耕し、守る」農業には、本来、食糧を生産すると同時に環境を保全する機能があるからである。
しかし、現在、慣行農法と呼ばれている工業化された農業には希望がない。一九六○年代初頭から、世界各地で多収穫の種子と化学肥料と農薬をセットにした大規模・単作・機械化・化学農業が進められてきた。この農法は当初は驚異的な食糧増産を可能にし、「緑の革命」と賞賛され、その「奇蹟の種子」を造り出したノーマン・ボーローグはノーベル平和賞を獲得した。ところが現在、「緑の革命」の結果はどうなっているか。
大規模・単作・機械化・化学農法が導入された当初、もっとも顕著な成功例とされたインドのパンジャブ州では、「二十年後には疲弊した土壌、病害虫に蝕まれた作物、借金を負い、絶望した農民」と「紛争と暴力が残された」だけだった(9)。
かつての世界各地の肥沃な地帯が、今日ではもはや作物のため力を生じなくなっている。大規模な農地は風食によって土壌を失って草も生えない砂漠と化してしまった。大規模な灌漑は地下水の枯渇をもたらしている。大規模農法では、除草剤を大量使用し、除草剤は土壌中の微生物を痛めつけ、地下水と河川を汚染する。また、大規模で単作をするために同一種類の病害虫が蔓延してしまうので、これを抑え込むために大量の殺虫剤を散布するので、土壌が汚染され農民と消費者とが薬害に苦しんでいる。
また単作によって同じ作物をつくり続けたために、土壌中の微生物相の単純化がおこり、これが原因となって農地は連作障害に悩まされ、その解決のために「土壌消毒」と称して作付け前に毒ガスを土中に吹き込んで、土中の微生物を有用、有害区別なく殺し土壌を自ら破壊しているのが慣行農法である。
化学肥料のアンモニア臭は害虫を呼ぶので、さらに農薬の大量散布を余儀なくさせている。さらに、化学肥料もまた土壌に微生物が住めなくなってしまう。土壌中に微生物が住まなければ、有機物は分解されず作物は栄養を吸収することができない。
以上のように、かつて「緑の革命」と賞賛された近代的化学農法は、土を暴君的に支配し土から収奪する農法なのである。あたかもカインが土を憎んだように。そして、今や、地球規模で土は死滅しつつあり、食糧生産の基盤がうしなわれつつある。「耕し、守る」農法から遠い近代的化学農法に、二十一世紀の希望はない。
(3)遺伝子組み替え作物の問題性
さらに、遺伝子組み換え作物の問題性についても、ここでごく簡潔に指摘しておきたい。推進者は、遺伝子組み換え作物こそ食糧危機の時代の大増産の切り札であると主張する。しかし、遺伝子組み換え作物とは、人間、それも消費者でなくおもに生産者の省力化・効率化のために、作物に遺伝子操作を加えたもののことである。
たとえば、除草剤耐性大豆とはすべての雑草を枯らす強力な除草剤にも耐えるよう遺伝子を操作した大豆であるが、これは除草剤散布のコストを減らすために工夫された。懸念されていることが少なくとも二つある。第一は人間の健康被害である。そんな強力な除草剤を用いた大豆を食べて人間のからだは大丈夫なのか。また、遺伝子組み換え技術自体、安全なのかという懸念である。第二は環境破壊の懸念である。一部収穫されなかった遺伝子組み換え作物自体が雑草化し地球に蔓延してしまう恐れがある。また、最強除草剤に負けない遺伝子が、ミツバチやチョウによって花粉が運ばれることによって、類縁の雑草に広がり除草剤のまったく利かない雑草が蔓延し、生態系が破壊される。すでに、そうした実例がデンマークの研究所から報告されている(10)。遺伝子組み替え技術は「土を耕し守る」農業からは遠い技術である。
昨年一九九八年八月英国ローエット研究所のパズダイ博士は、遺伝子組み換え食品の危険性をテレビで公表した。遺伝子組み換えジャガイモをラットに十日間与え続けた結果、脳、すい臓、脾臓、肝臓に影響が現れ、免疫機能も落ちたのである。ラットの十日は人間の一年に当たるという。公表の結果、産業界の圧力でパズダイ博士の研究資料は没収され、博士は研究所をやめさせられてしまった(11)。その後、英国では遺伝子組み換え作物閉め出しの動きが急になっていることは報道されているごとくである。
聖書を信じる我々としては、遺伝子組み換え作物の健康に対する害の問題もさることながら、神が書かれた作物の設計図である遺伝子配列そのものに、人間が手を入れてるということが、いったい許されることなのかという重大な疑問を呈さざるを得ない。遺伝子組み替えというのは、品種改良とは質的に異なる作業である。その神を畏れぬ所業に対する報いは、いずれ人と土とに及ぶであろう。
(4)「耕し、守る」農業を
神が我々に期待したまう農業とはどういうものであるか。それは、地を「耕し、かつ、守る」農業である。土を収奪するような農業ではなく、土に仕える農業である。それは、土から力を引き出して作物を得るだけではなく、同時に、環境を保全する農業である。このような農業が有機農業である。ここに、一九七一年以来わが国で有機農業の研究実践に取り組んできた日本有機農業研究会(代表幹事澤登晴雄)の今日までの研究の集大成ともいうべき『有機農業ハンドブック』(農文協、一九九九年)の序文の抜粋をもって有機農業の本質と現状と展望を紹介しておくのが適切であろう。
「一九七一年に創設された日本有機農業研究会に集う私たちは、こうした農業と食生活のあり方を反省・批判し、いのちを育み、環境を守る<農>と<食>の創造をめざしてきた。そして、自給を基礎に置き、田畑に多種多様な作物を造り、畜産を組み合わせ、里山を活用して堆厩肥・飼料・種子などもできるだけ農場内・地域内で自給してきた循環的な農業の伝統に学び、ハワードなどの有機農業の原理にも触発され、近代農法を超える新たな農法の確立を模索している。
農業技術面については、良質の堆厩肥を入れ続けて地力が回復し、栽培時期や品種を選べば、農薬や化学肥料を使わずに作物が育ち、生産量も慣行農業程度に確保できること、適切な飼料環境を整えれば、ホルモン剤や抗生剤なしで健康な家畜を育てられることを、長年にわたる全国各地の経験のなかで証明してきた。『有機農業は味はよいが、収量が少ないのではないか』『労力がかかりすぎる』『将来、食糧不安が増すなかで、有機農業ではすべてを賄えない』といった疑問に答えられる道が開かれたといってよい。
しかも、有機農業は天候不順なときにも慣行農業に比べて病気の発生が抑えられる。大冷害だった九十三年にも平年作に近い収量を維持できた有機稲作農家が少なくなかったことは、記憶に新しい。異常気象が日常化した感がある昨今、いよいよ有機農業の真価が発揮されるときがきたのではないだろうか。」(12)
少々、解説を加える。有機農業とは「土つくり」の農業である。有機農業でいう「土つくり」とは病原菌などの微生物がはびこることを抑え、作物の育成に役立つ多様な微生物が暮らせる環境としての土の状態をつくることである(13)。化学肥料・農薬、大規模農地、単作・連作は微生物の住みかとしての土を破壊する。そこで、有機農業では、微生物の住みかとしての土の団粒構造を造るため完熟堆肥を用い、かつ微生物の餌のために有機肥料を用いる。また、単作・連作をやめて輪作体系を組むことによって、土壌の微生物の多様性を維持向上することを図る。土つくりの農業ということは、根がしっかり育った健康な作物を作る農業である。根が強く健康な野菜は虫にも病害虫にも抵抗力がある。天候不順なときにも病気の発生が抑えられるゆえんである。
さらに、有機農業は、化学肥料や農薬による土壌や河川の汚染を防ぎ、従来、汚染原因とされていた人畜の糞尿を有効利用することによって、二重の意味で環境を保護することにもなる。有機農業こそまさしく土を「耕し、守る」農業である。
(5)人本来の食の回復
食糧大増産がかなわなくても、世界の飢餓は解決できる。食習慣を正常化し消費傾向を変えれば世界に飢餓は存在しなくなるのである。たとえば、牛肉を一キロ造るために、穀物が五キロ必要である。地球の外から見れば(つまり神的な視点からすれば)、世界の現状は、欧米・日本など金持ちが貧しい人々の穀物を取りあげて、牛にくれてやっているという構図なのである。世界中の人が穀物菜食を基本として、不足分を時折、少々の肉食をもって補うような食生活をするならば、世界の飢餓はなくなる。
ちなみに、人間が本来、穀物菜食を基本とすべき生物であることは、歯列から見てもあきらかなことである。草食動物である牛馬は草を切りこなす歯しか備えていない。肉食をもっぱらとするライオンやトラには犬歯しかない。人間はどうなっているかといえば、成人の場合、穀物をこなす臼歯が二十本、野菜をかみ切る切歯が八本、肉に関係する犬歯は四本、合計三十二本である。比率でみれば、穀物五:野菜二:肉一という割合になる。欧米文明の影響を受けた現代人は、あきらかに穀物と野菜が不足し肉を過食している。
ところで、日本でガンが死亡原因の第一位になって久しいが、特に肉食と関係深い大腸ガンが増えている。山梨の長寿村鋼原を六十年間追跡調査してきた医学者は次のように報告している。「食生活が近代化して十年すると発ガンが増える。鋼原でも戦後増えたものは、動物性たんぱく質、脂肪、コレステロールで、肝腎かなめの微量ミネラル、ビタミン、植物繊維が半減したという結果が出ました。」(14)
創造の本来の姿と大洪水後の肉食公認の出来事をかんがみるならば、本来人間の生理としては穀物菜食を基本として、その不足を少量の肉で補うというのが、正常である。もちろん、精白しすぎた穀類でないことが前提であるが。人類の飢餓と健康の問題に関する鍵の一つは、聖書的な食の原則の回復にある。
結びに代えて
修道院の日課には伝統的に農業労働が含まれている。筆者は、神学校教育において農業の知識と体験は重要な要素ではないかと思う。人は頭だけで考え、心だけで感じるものでなく、その足腰と腕をもっても考えかつ感じるものだから。また、直観的にいえば、土に触れるとき人の心は落ち着きを取り戻すからである。事実、農作業を精神的な癒しに応用する人々もいる。人はやはりアダムなのであった。
また、アジアへ宣教のビジョンを掲げる東京キリスト教学園はなおさらのことである。農業を知らずして、農業人口七割のアジアへの宣教が語れるだろうか。アジアという枠を外しても、二十一世紀という危機の時代に突入する世界にむかって、聖書に啓示された土についての真理を語ることは、神学の果たすべき重要な役割の一つと信じる。
注
(1)ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』第二版序文(岩波文庫)一九五○参照。
(2)Cf.F.Schaeffer,Pollution and the Death of Man,the Christian View of Ecology,Tyndale,1970。
(3)井上ひさし『コメの話』新潮文庫、参照。
(4)J.エリュール『都市の意味』すぐ書房p33、p29参照。
(5)アウグスティヌス『神の都』15:8参照。なおcivitasは国でなく都市、都と訳すべ きである。
(6)T.E.Maccomiskey,Theological Wordbook of OT,Moody,p59。
(7)O.ハレスビー『祈り』聖文舎
(8)ジョセフ・クラッツマン『過剰人口』農文協p33
(9)ヴァンダナ・シヴァ『緑の革命とその暴力』浜谷君子訳・日本評論社
(10)天笠啓祐「遺伝子組み替え食品と、その問題点は?」(『土と健康』二九三号、日本有機農業研究会)所収
(11)津川タキ「遺伝子組み替え技術の破綻」『土と健康』三一七号所収
(12)『有機農業ハンドブック』(農文協、一九九九年)序文
(13)小池星二「有機農業を成功させるために」一九九九年
(14)古守豊甫「長寿村、短命化の教訓」『土と健康』三○二号(日本有機農業研究会
)所収。